那須盛馬 - 土佐勤王党に141番目に加盟

片岡利和の玉垣

[ 高知県高知市天神町・潮江天満宮 ]


潮江天満宮の玉垣に「東京 片岡利和」と言う名が残っちょりますが、判る人にゃすぐに誰の事か判るろー。

そう、片岡利和とは「那須盛馬」の事じゃねー。

那須盛馬は天保7年(1836)に土佐郡潮江村(現・高知市)の永野源三郎の二男として生まれ、土佐藩家老佐川領主・深尾家家臣・那須橘蔵の養子に入り那須盛馬と名乗り、術にすぐれた剛勇の士として聞こえが高かったそうながです。

文久元年(1861)土佐勤王党が結党されると141番目に血盟同志となり、文久2年(1862)京に上り志士達と交わったけんど、文久3年(1863)に土佐勤王党の獄が始まると、謹慎処分を受けるがです。

元治元年(1864)の禁門の変の後の8月14日夜半、浜田辰弥(田中光顕)、大橋慎三、井原応輔、池大六らと共に、佐川の赤土峠に集結し、そのまま脱藩し長州三田尻に入っちょります。

その後、大坂城を焼き払う計画を立てて浜田辰弥(田中光顕)や大橋慎三らと大坂へ出て本田大内蔵(武者小路家雑掌)の屋敷に潜伏するがですが、元治2年(1865)1月計画が漏れ大阪で新撰組に襲撃され、大和・十津川へ逃げ込み潜伏するがですが、この時期に片岡源馬利和と改名しちょるようです。

慶応年間諸国の志士と交わり討幕運動に参加し、中岡慎太郎の陸援隊を結成するための資金調達等でも奔走しちょり、戊辰戦争にも参戦しちょります。

明治維新後、新政府の諸官を歴任し、侍従となり明治天皇からの信頼厚く相撲の相手も務めたと言う。

明治39年(1906)貴族院議員となり、明治41年(1908)73歳で、満てちょります。

潮江天満宮の玉垣に名を残しているのも、元々生まれ育った故郷・潮江の地の氏神様への寄進者の一人として、名前が刻まれちょるがでしょう。

【参考・引用】 

『高知県人名事典』 高知新聞社
片岡源馬 - Wikipedia




「満てる」とは、土佐では”その人の寿命が満つるまで生きたと言う表現をし、 病死や事故死の場合は「亡くなった」と言う。
つまり、十分に長生きして「老衰死」した場合に、「満てた」と言うがです。
ええ、表現じゃと思いませんか・・・。


MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment