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中村重遠 - 廃城令による姫路城の解体を救った男

中村重遠

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]


現在、世界遺産に指定されちゅう国宝・姫路城が平成21年(2009)から大規模な改修工事「平成の大修理」が行われちょりますねー。

つい最近、その大天守最上層の修理が終わった事が報道陣に公開されニュースにも流れたがですが、白鷺城と呼ばれる由縁の真っ白い壁面などに、土佐の漆喰が使われちょりました。

けんど、この姫路城と土佐の関係は、これだけじゃないがです。


明治6年(1873)、明治政府は全国にあった144城に廃棄を通達し、ほとんどが売却・破壊され、姫路城は市内の神戸某にわずか23円50銭(現在の貨幣価値で約10万円)で落札されたがですが、解体費用が捻出できないとかで、時間は流れ、いつのも間にやら陸軍所有となっちょったそうです。

そんな時、芸術的価値が高い美しい城を後世に残したいと明治11年(1878)陸軍省第四局長代理・中村重遠大佐が、陸軍卿・山県有朋に「名古屋城および姫路城の保存を太政官(太政大臣・三条実美)に上申してもらいたい」という内容の意見書を提出し、意見書を本部内で検討した結果、保存される事になるがです。

因みに、名古屋城もドイツ公使・ブラントと中村重遠による保存活動の結果残ったがです。

今日、世界遺産にも指定された姫路城が存在するのは、土佐の偉人・中村重遠さんの御蔭ながでして、姫路城にゃ中村重遠さんの功績を讃え、顕彰碑が建てられちょります。


中村重遠は天保11年(1840)小野弥源次の子として宿毛に生まれ、通称・進一郎と言い、中村儀平の養子となっちょります。

慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦が起ると、松山城攻略に参加し、その後、東征に参戦し功績をあげちょります。

新政府じゃ兵部省に入り明治7年(1873)、熊本鎮台参謀長心得に任命されて熊本に赴任し、谷干城の部下となり、江藤新平の「佐賀の乱」が起こると出征し平定しちょります。

また、明治10年(1877)の西南の役の際も、別働第2旅団参謀長として出征し軍功をあげちょります。

明治17年(1884)、45歳で病死。

中村重遠

中村重遠

中村重遠さんの墓所にゃ、篆額(石碑などの上部に篆書で書かれた題字)が山縣有朋、撰文は谷干城による、ざまーな(大きな)墓碑が建てられちょります。
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