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岩村土居城 - この周辺が津野親忠が幽閉された地

岩村土居城

[ 高知県南国市福船字城丿内 ]


物部川西岸の田園地帯にある福船八幡一帯が土居岩村城だとされちょり、周辺にゃ遺構の一部が残っちょります。

築城時期は定かじゃないがですが、南北朝時代にはあったようなが。

土佐の南北朝期に北朝方の武将で津野新庄岡本城(現・須崎市)の城主じゃった堅田小三郎経貞(後、佐伯経貞)の軍忠状を中心とする文書『佐伯文書』に、土居岩村城の事が記されちょるそうです。

建武3年(1336)5月1日の項に、「堅田小三郎経貞申,去月廿六日被寄岩村之城時,最前経貞馳向彼所,焼払城郭候了」とあり、4月26日に佐藤六郎等が南朝方の城主・岩村掃部を攻め、城を焼き払った。

【参考・引用】『土佐国古城略史 全』宮地森城・著



岩村土居城

今でも、須崎に「堅田姓」が多いけんど、この一族の末裔ながでしょうねー。

因みに、土佐の南朝方で有名なのは大高坂城(現・高知城)の城主・大高坂松王丸じゃったがですが、此処も攻防戦が繰り広げられ大高坂城は落ちちょります。

高知城 - 高知の名の由来 2012.04.30
吉野(南北)朝廷時代古戦場跡 2009.08.21
「南北朝」所縁の地 - 大高坂松王丸の記念碑 2009.08.20 

ついでに、南北朝の攻防戦で有名な摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、南朝(後醍醐天皇)側の楠木正成・新田義貞が北朝方・足利軍と戦った「湊川の戦い」で敗北したがは、土居岩村城が落城した後の、建武3年5月25日となっちょります。

天正14年(1586)、長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が戸次川の戦いで戦死し、家督相続争いが起こる・・・。

長宗我部信親 - 戸次川の戦いで討死 2012.03.25

家督を継いだがは四男・長宗我部盛親だったがですが、慶長4年(1599)長宗我部元親の家臣・久武親直の策略によって三男・津野親忠が幽閉された地が、此処、土居岩村じゃったがです。

元親公墓 - 長宗我部元親 2008.11.24
三嶋神社 - 脱藩の道と土佐七守護・津野氏に所縁の地 2010.05.25

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた長宗我部盛親が敗れた時、兄になる津野親忠は何とかして「長宗我部」の家を守ろうとして藤堂高虎を通じて徳川家康に謝罪し土佐半国を貰える様に取り付けるがです。
が、またして久武親直が「津野親忠は、藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と盛親に讒訴(他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。)し、香美郡岩村・霊厳寺にて久武親直によって自害させられちょります。

享年29歳。

この事が徳川家康を激怒させ、長宗我部盛親は「兄殺し」として咎められ、改易となり、長宗我部氏の滅亡へと繋がって行くがです。

久武親直は、長宗我部家滅亡の元凶あるいは奸臣(邪悪な心を持った家来)で、家督相続争いの時、長幼の序を守って二男・香川親和を跡継ぎとすることを進言した吉良親実らが、天正16年(1588)切腹させられる原因を作った張本人でもあるがです。

吉良親実らを死に至らしめたこの事件が、有名な「七人みさき」伝説となるがですが、当の久武親直は長宗我部家が滅んだ後、土佐から逃げ肥後熊本の加藤清正に仕えたと・・・・・。

久武肥後守昌源 - 長宗我部譜代の家臣で久万城主 2011.05.01

ここらは田園風景の広がる地域じゃけんど、土佐の歴史の舞台じゃったがですき・・・。


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- 1 Comments

ねえやん へ">

ねえやん へ  

Re: タイトルなし

ねえやん へ">

御心配を、お掛けしてすみません。
ありがとう、ございます。

2012/10/01 (Mon) 11:11 | ねえやん へさん">REPLY |   

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