野見 - 母の故郷は648年の白鳳大地震で沈んだと言う伝承の地

野見湾

[ 高知県須崎市野見 ]


野見と言う集落は、野見湾に面した小さな漁村です。

地元には昔からの言い伝えがあり、「野見千軒、戸島千軒もの大きな集落があったけど、地震で海の底に沈んだ」と母からも聞いた事がある。

この話は『日本書紀』の天武天皇十三年十月十四に起こった「白鳳大地震」で広大な土佐の地が海没したとされる、お話に関する伝承話です。

実際、近くの野見湾に面した戸島は、海中から弥生時代の土器の欠片や奈良時代から鎌倉時代にかけての生活用具が多数出土していて、今では小さな漁村じゃけんど、この辺りは当時の土佐の国の中でも、開けた場所だったがですねー。

現在は、鯛の養殖が盛んな場所です。

dendenmushiさんの、ブログ「でんでんむしの岬めぐり」に、地震で地盤沈下したがやないろうかと言うふうに野見崎の事が書かれちょります。

525 野見崎=須崎市野見(高知県)明らかになにかある野見湾周辺の字地名
526 小長岬=須崎市野見(高知県)細くてぎざぎざのフラクタル半島をバスが走る
527 大長岬=須崎市野見(高知県)言い伝えが受け継がれてきた海に沈んだ里の話





ここから少し、母の事を記させていただきます。

八月二十日午前六時半頃、電話が鳴る。
時間帯からして、嫌な予感が・・・・。

受話器を取ると、「お母様の血圧が低下したので、急いで来て下さい・・・」と病院からの連絡だった。
急ぎ駆けつけると、少しは血圧は戻ったようだったがモニターに表示される脈拍と呼吸の数字は、時折、「上限アラーム」表示が赤く点灯しアラームが鳴り、酸素濃度も低く呼吸が苦しそうな状態になっていた。
そんな母に、何度声をかけても、眼を開ける事も話す事もなかった。
手を握り締めても、握り返す力は弱々しかった。

ただ、延命処置に入る数時間前、ほんの少しだけ意識が戻り、かすかに眼を開けた時間があった。
この野見の写真は、如何しても母に一目見せてやりたくて、亡くなる数日前に撮って来た母の故郷・須崎市野見の集落です。

母は時折、激痛で意識がモウロウとしている中、「お父さん、何処にいるの・・・お母さん、何処にいるの・・・」と囈(うわごと)のように呟く事が何度かあった。
きっと故郷の記憶の中で子供に戻って、両親を探してたんだろうねー。

「母さん、野見の景色ぜよ。」
「元気になったら、きっと連れて行っちゃるきねー、頑張りよ、大丈夫じゃきねー・・・」
と話かけると、母はジッと写真を見つめていたように思う。

母の脳裏に焼きついたと信じたい写真の中の故郷・野見は、母の記憶のある町並みとは変わっていても、生まれ育った故郷の空の青さも、海の碧さも変わってなかったと思う。


午後2時半頃。
主治医から「お母様は、もう自呼吸では限界です」と言われ、人工呼吸器が装着され延命処置に切り替わった。

その夜から病院に泊まり込み母の傍にいる事にしたが、話しかけても何も語らず、眼を開ける事もなかった。
時折、眉間に皺(しわ)をよせて苦悶の表情を呈していたので、意識の奥底では苦しく、激痛に絶えていたんだろう。

主治医からは、痛み止めを連続投与しているので「痛みを感じる事はないでしょう」と言われていたけど、それは「大嘘」だった・・・。
しゃべる事も目を開く事もなく、誰にも助けを求める術もなく、ただ母の意識の底には「激痛」と「苦しさ」だけが残されたと思う。


そして八月二十二日午前五時ごろから、モニターのアラームが頻繁に鳴るので、3度もナースコールを押すが直ぐに処置に駆けつる者は誰もいなかった。
やっと看護師が来たのは、アラームが鳴り始めて約一時間後の、六時ちょっと前だった。
何をするでもなく、ただ「タン」の吸引のみ繰り返すのみ・・・・。
そして「脈拍は上限」・「呼吸は低下」、「酸素濃度の低下」と危険を示すアラームが病室に鳴り響くばかりだった・・・・。
看護師が宿直医を呼んだのは、およそ午前六時十五分過ぎ。
何もかも、看護師の対応ミスと判断力の欠如により、結局、素人眼に見ても「タンの吸引」による呼吸困難だったのではないかと思う。


六時三十二分と死亡を告げられる。
享年87歳。

いくら末期で余命幾ばくもない患者とは言え、もう少し機敏な対応をしてくれていたら、もう数時間、もう数日生き延びたかも知れないし、苦しみながら逝く事はなかったかもしれないのではと思うと、あまりの対応に、怒りと腹立たしさから腸(はらわた)が煮えくり返る思いである。
出来る事ならば「敵討ち」を・・・!
今でも、激怒した心境は変わらず、これ以降の経過や状況は書き控えます。

亡くなった直後の母の表情は怒っているようにも見え、病院に駆けつけた妹も「やっぱり、怒っちゅうねー」と話した事でした。
丁度、病状が急変した時間帯、不思議な事に窓の外は激しい雷鳴が轟き、母の無念さが引き起こしたのか、病院の周辺に数発の落雷が落ちた。
それは「病院に対する怒り」と「私の不甲斐なさに対する」表れだったんじゃないかとも思ってみたり・・・。
「母さん!もっとましな病院に入院しちょったら、もしかしたら、もっともっと生きられたかも知れないねー。」

最後に意識のあった数日、私に何度も何度も繰り返して言っていた言葉は「情けない」と「忘れなや・忘れなよ」だった。
「何を」って問いかけても、何も答えは返ってこなかったが、きっと母は病気になって思うように身体を動かす事も話す事も出来なくなった事に対して、自らの歯痒さから「情けない」と嘆き、自分の事を覚えていて欲しいとの願いを託して「忘れなや、忘れなよ」と訴えかけていたのだと、心に刻み付けている。

闘病から百八日の間、一番辛かったのは母自身だが、どんなに痛くても苦しくても泣き叫ぶ事もなく最後までグッと歯を食いしばって耐えていた母を見るのも切なかったが、日増しに体力が衰え衰弱して行く母の様子を見るのが、何よりも辛かった。
そんな母に繰り返し繰り返し「大丈夫!大丈夫!」、「少しでも良くなったら家に帰ろうねー。歩けんでも俺が背負って連れて帰っちゃるき心配しなや」と、嘘で塗り固めた言葉をかけてやるのが精一杯だった。

「母さんを助けられんかって、ごめんよ。許いてよ。」と、何度心の中で詫びても、未だに悔いが残る。

母の手

棺の中に横たわった母は、穏やかな顔に戻っており、幾分笑っているようにも見えた。
そして、一緒に棺に入れてあげた故郷・野見の写真と共に、旅立って行きました。

あなたの子供として、生まれて来て感謝しています。
あなたの事は、忘れませんよ
母さん、ありがとう。!


ブログ再開の最初は、自分自身の気持ちの切り替えのために、如何してもブログに母の記憶を残したくて認(したた)めた、個人的な母への思いです。

また長い間、コメントや拍手で励ましていただきました沢山の「ネットフレンド」の皆さん、メールや電話で励ましてくれた歴史写真家・前田秀徳氏、お仲間のNさんには、この場をかりまして感謝申し上げます。

ありがとうございました。


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2 Comments

ねえやん へ">

ねえやん へ  

Re: タイトルなし

ねえやん へ">

いつも、お心遣いありがとうございます。

2012/09/29 (Sat) 14:30 | ねえやん へさん">REPLY |   
紅葉 さんへ">

紅葉 さんへ  

Re: こんにちは~

紅葉 さんへ">

コメントありがとうございました。

2012/09/29 (Sat) 14:28 | 紅葉 さんへさん">REPLY |   

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