田内秀弘(刀鍛・佐行秀の弟子) - 宮川助五郎の使用した刀で知られる

田内秀弘(刀鍛・佐行秀の弟子)墓

[ 高知県高知市薊野北町 ]


田内秀弘は、刀鍛・佐行秀の弟子で、明治18年(1885)に59歳で亡くなった刀鍛です。

田内秀弘(刀鍛・佐行秀の弟子)墓

土佐国秀弘の銘で、土佐国一宮・土佐神社と靖国神社に太刀を奉納した事と、宮川助五郎の事が、墓碑にゃ刻まれちょります。


その宮川助五郎とは、天保15年(1844)に高知城下潮江村の土佐藩上士馬廻格の家に生まれ、諱は長春。

勤王心に厚い人じゃったそうで、上士の身分で土佐勤王党に84番目に加盟し、文久2年(1862)の山内容堂の身辺警護として組織された五十人組の総頭の一人として江戸に出ちょります。

事件が起こったがは慶応2年9月12日夜・・・。

三条制札事件と言われる、三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士8名と、京都の治安維持をしよった新選組との闘争で捕縛された事件。

【三条制札事件】

1865年(慶応元年)に実施された第2次長州征伐の失敗以降、江戸幕府の権威は失墜し、慶応2年になると京都では幕府の立てた(長州藩を朝敵とする内容の)制札が引き抜かれるという事件が頻発しだした。
特に、鴨川にかかる三条大橋の西詰に立てられた制札が3度に渡って引き抜かれ鴨川に捨てられたことから、新選組に制札の警備が命じられた。

制札警備を命じられた新選組は、三条大橋を中心とした3拠点に隊士を配置し、いつでも包囲体制をとれるように準備を整えていた。
事件当日は三条会所に原田左之助ら12名が、町屋に大石鍬次郎ら10名が、そして酒屋に新井忠雄ら12名が配置された上に、さらに斥候として浅野薫ら2名が配置されて犯人の出現を待ち構えていた。

新選組が警備に当たっていたところ、同年9月12日、藤崎吉五郎と宮川助五郎を中心とした土佐藩士8名が三条大橋西詰に出現、制札を引き抜く動きを見せた。
土佐藩士出現の報を受け、原田左之助隊が現場に急行。
逃走を開始した土佐藩士たちに、遅れて駆けつけた新井忠雄隊が追い討ちをかける形となり、新選組は有利に戦いを進めた。
ところが、斥候の浅野薫が乱戦を怖れたため、大石鍬次郎隊への連絡が遅れて当初予定していた包囲体制が完成せず、土佐藩士たちは退路を確保することができた。
また、土佐藩士の殿を勤めた安藤鎌次の奮戦もあり、結局、新選組は8人の土佐藩士のうち5人を逃してしまうことになった。

【参考・引用】 三条制札事件 - Wikipedia



土佐藩士8名とは、宮川助五郎・安藤鎌次・岡山禎六・沢田屯兵衛・中山謙太郎・藤崎吉五郎・松島和助・本川安太郎の事で、高札を抜き取ろうと木屋町瓢屋を出て三条大橋西詰で警戒中の新撰組22名と遭遇し斬り合いになった。

この斬り合いで藤崎吉五郎は斬殺、安藤鎌次は仲間を逃がそうと防戦したけんど数箇所に及ぶ刀傷を受け、河原町の京都・土佐藩邸に逃げ込んだけんど、傷が元で翌日亡なっちゅうがです。

宮川助五郎は、差料の長刀で鬼神の如き戦い続けたけんど、深手を負って捕らえられるがです。

この時、宮川助五郎が使った刀が土佐国秀弘(田内秀弘)作じゃったがです。


ここから、坂本龍馬にも関わって来るがです。

捕えられて、新撰組の屯所に連行され近藤勇の取調べを受けるけんど、身柄の処遇で一旦は土佐藩に引渡しで話がまとまるけんど、幕府老中・板倉勝静らの反対で町奉行所に拘束されるがです。

やっと、幕府から宮川助五郎の身柄の引渡し通告が土佐藩に出たのが、慶応3年(1867)11月14日・・・。

坂本龍馬が暗殺される前の日なが。

土佐藩大監察・福岡孝弟と中岡慎太郎の間で、宮川助五郎の身柄は陸援隊が引き受けると言うような事で話が纏まっちょったと言う。

そんで坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺された夜に相談しよった話が、宮川助五郎の処遇の件じゃったとも言われちゅうがです。

当の宮川助五郎は、土佐藩に引き渡され土佐に強制送還される途中、脱走し脱藩しちょります。

維新後、脱藩の罪を許され戊辰戦争に土佐藩兵として従軍し、小軍監、軍監と昇進し函館に出征し功績を挙げちょります。

明治3年(1870)病気により、東京で亡くなっちょります。

享年27歳。

【参考・引用】
『高知県人名事典』 高知新聞社 
『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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