西山志澄・加尾 - 西山志澄は土佐勤王党に71番目に加盟

西山志澄・加尾墓所
西山志澄・加尾墓所

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]


西山加尾(旧姓・平井)は、ご存知、平井収二郎の妹で、坂本龍馬の初恋の人とされちょりますねー。

西山志澄(にしやま ゆきずみ)は、天保13年(1842)に高知城下南新町(現・桜井町)の郷士西山嘉蔵の三男として生まれ、元の名を直次郎と言うがです。

文を市川彬斎や徳永千規に学び、武術は武市半平太や吉村頼平に学び致道館に入っちょります。

土佐勤王党にゃ71番目に加盟し、文久3年(1863)の青連院宮の令旨事件が山内容堂に発覚した時、京より平井収二郎を土佐に護送しちゅう。

土佐勤王党の弾圧が始まると、投獄されちょった武市瑞山や同志の釈放を求め奔走しちょりますが、その甲斐もなく慶応元年閏5月11日(1865)武市瑞山は切腹するがですが、遺骸を勤王党同志らと共に長棒の駕籠に乗せ新町の半平太の自宅まで運んだ一人でもある。

戊辰戦争にゃ、土佐藩・迅衝隊として参戦し板垣退助のもとで軍功を挙げちょります。

維新後の明治3年(1870)兵部省に出仕して翌年には御親兵一等士官になるけんど、明治6年(1873)征韓論争では辞職し、明治7年(1874)大蔵省に出任するも、再び辞職して土佐に帰郷しちょります。

その後、自由民権運動に加わり板垣退助を助けて立志社、愛国社、土佐民会の設立に尽力をし、明治11年(1878)立志社副社長、明治13年(1880)愛国社の副議長となり、国会開設の歎願の議論をまとめたがです。

明治16年(1883)土陽新聞社長。

明治20年(1887)言論、出版、集会の自由を建白するため上京するも保安条例によって投獄され、明治22年(1889)やっと土佐に戻っちょります。

明治23年(1890)自由党幹事ととなり、翌年同志と自由倶楽部を組織する。

明治25年(1892)、植木枝盛の死後、植木志澄として衆議院議員に当選し、以後、計5回当選し、明治31年(1898)第1次大隈重信内閣で警視総監を務めたちょります。

加尾が西山志澄に嫁いだがは慶応2年(1866)。

京で、平井収二郎に可愛がられちょったのが縁じゃとか・・・。

西山志澄は天保13年(1842)生まれ、加尾は天保9年(1838)じゃき、加尾が4っ年上の姉さん女房じゃったがです。

最初は、加尾の婿養子として平井家を継いじょりますが、明治11年(1878)に加尾と共に、本来の西山姓にに戻いちょりますが、その後は、御子孫たちが今日まで西山・平井両家を守り続けて来ちょります。

加尾が72歳でみてた明治42年(1909)の2年後の明治44年(1911)、西山志澄は68歳で亡くなっちょります。

【参考・引用】 『高知県人名事典』 高知新聞社



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