尾崎源八 - 土佐勤王党に90番目に加盟 

尾崎忠治墓

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]


尾崎忠治の墓は土佐にはなく、東京の青山霊園に眠っちょります。

尾崎忠治と言うてもピンとこんと思うけんど、元の名は尾崎源八と言い、文久2年(1862)に島村衛吉によって土佐勤王党の血盟同志として、矢野川源右衛門らと供に90番目に参加した人ながです。

因みに、矢野川源右衛門は89番目。

尾崎源八は、天保2年(1831)に土佐藩士・尾崎源之丞の次男として生まれ、嘉永2年(1849)から免方(租税係役)、安政2年(1855)から郡方下役兼吟味役に転じ民生や裁判の仕事に就き、陸目付けに昇進しちょります。

陽明学者・奥宮慥斎に教えを受けた影響もあったがでしょう、武市瑞山の土佐勤王党に加盟しちょります。

文久2年(1862)に五十人組が組織され、山内容堂の身辺警護と称して土佐藩庁の許可が出る前に江戸に出た際にゃ、大目付・平井政実と計り「出国嘆願書」のみ書かせ、「願い捨て」のまま彼らの脱藩の罪を逃れさせちょります。

文久3年(1863)に武市瑞山ら多くの同志が獄に繋がれた土佐勤王党の獄で免職になっちょりますが、勤王の為に尽力奔走しちょります。

戊辰戦争にゃ、食料弾薬や軍資金の調達など補給面で貢献しちょります。

明治3年(1870)12月、新政府に仕え出資刑部大解部に就任、翌年7月に刑部省が司法省と名を変え、司法大解部、同年10月に司法少判事、同8年(1875年)5月に長崎上等裁判所長心得、同17年(1884年)12月に東京控訴院長、同19年(1886年)8月には大審院長などを司法ポストを歴任した。

同23年(1890年)8月に枢密顧問官に任じられ、亡くなるまで務めちょります。

尾崎忠治 - Wikipedia


明治38年(1905)病気のため、75歳で亡くなっちょります。

【参考・引用】 『高知県人名事典』 高知新聞社



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2 Comments

鳥追いお孝  

西郷に違えられる

尾崎忠治さんの写真が、西郷隆盛さんではないか、とのテレビ放送が1996年4月24日にありました。
秋田の角館旧家で出た写真アルバムに、大礼服姿で収まる尾崎忠治さんの写真だけが、裏に名前なくあった事からこれは西郷ではないか、との事でドキュメンタリーは進行します。

根拠は、幕末群像写真(なぜか幕末の有名人が写る、と歴史虚偽宣伝にされているフルベッキ写真)にある西郷と似ているからとの事と、その西郷写真を科捜研で調べて貰った「同一人物と推定」という結果から、これは西郷ではないかと言うわけです。

小松方正さんのナレーションは、この写真が西郷であるともないとも、今は断言出来ない、と結んでいます。

これが尾崎忠治だった、との後追い番組が放送されたかどうか、それは分かりません。

2014/10/07 (Tue) 12:17 | EDIT | REPLY |   

B  

尾崎 忠治(源八)男爵の後継ぎは尾崎麟太郎男爵のようです。二人とも土佐藩士のようですし、多分親戚なので養子に入ったのだと思います。

2012/12/04 (Tue) 02:40 | REPLY |   

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