渡辺弥久馬墓 - 坂本龍馬とライフル1000丁の交渉

渡辺弥久馬墓

[ 高知県高知市筆山 ]


この墓石の主も、何度も探し歩いた一人。

何度か目で、草むらに入り笹や雑草を取り除いていくと、左の墓石に「斉藤」の文字が見えたがです。

奥さんの墓石じゃったがですが、「此処だ!」と思い、更に雑草を取り除くと、出て来ました。

「斉藤利行遺髪墓」と・・・。

坂本龍馬のファンにゃ、「渡辺弥久馬」と言うた方が、通りがエエろー。

渡辺弥久馬墓

渡辺弥久馬は、文政5年(1822)に上士の斎藤利成の子として生まれちょります。

藩主・山内豊煕の御側物頭として仕えるが、天保14年(1843)おこぜ組に加わっちょった事で反対派によって失脚するけんど、吉田東洋が参政に返り咲くと新おこぜ組のメンバーとして復職し、安政初年にゃ近習目付、上士銃隊総練教授などを歴任後、慶応年間にゃ仕置役・家老となっちょります。

渡辺弥久馬が表舞台に出て来るがは、慶応3年(1867)に長崎で起こったイギリス水兵殺害事件の容疑者の嫌疑が土佐藩にかかった時じゃった。

イギリス艦や幕艦、それに薩摩や土佐藩の艦船5隻が須崎湾に集結し、土佐藩船・夕顔丸の船上で談判が行われたがですが、土佐藩の後藤象二郎は土佐藩の関与を否定し、堂々と主張を貫き通したがです。

この時、土佐藩の代表の一人として同席したがが、渡辺弥久馬じゃった。

また、この時、土佐藩船・夕顔丸にゃ兵庫港から薩摩藩船・三邦丸を借用して駆けつけた、佐々木高行と共に坂本龍馬もおった。

また、その年の慶応3年9月24日、坂本龍馬最後の帰郷ともなった長崎からライフル千丁を土産に土佐に戻んて来た時、坂本龍馬を松ヶ鼻で出迎え吸江で交渉にも当たっちょります。

明治維新後に、多くの偉人たちが改名したように渡辺弥久馬も「斎藤利行」と改名しちょります。

新政府に仕え明治3年に刑部大輔、続いて参議として新政府の中枢にあって新律綱領編纂にあたるが、翌年西郷隆盛と木戸孝允の対立から全参議の辞任に伴って職を辞す。

その後、病気のために一時帰郷していたが、板垣退助が征韓論政変で下野して自由民権運動を起こすために立志社を結成すると、佐々木高行の依頼によって原轍とともに高知の反・板垣勢力の結集にあたった。

しかし、前者は一定の成果を上げたものの、結果的に旧・佐幕派勢力の復権を招き、佐々木高行・斎藤利行も板垣退助と同類(新政府を作った裏切者)として糾弾された。

明治7年(1874)に宮内省に出仕し、翌年には元老院議官に任じられて海上裁判所設置に尽力するが、明治14年(1881)に肺病に倒れ、間もなく死去した。

斎藤利行 - Wikipedia


明治14年5月26日、60歳で亡くなっちょります。

墓所は青山霊園にあり、この筆山にあるのは墓石にも彫られちゅうように遺髪墓じゃけんど、如何やら、渡辺弥久馬さんも無縁墓になっちょるようですねー。

寂しい事です・・・。

【参考・引用】 『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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