田岡嶺雲生誕地 - 反骨精神(いごっそう)の土佐人

田岡嶺雲生誕地

[ 高知県高知市赤石町 ]


仙台屋桜・牧野富太郎博士が命名 - 12.04.01 2012.04.02でご紹介した、仙台屋桜の由来の記された案内板が建つ公園は、元は、自由民権運動にも関わり、明治期日本の著作家・評論家でもあった田岡嶺雲の生誕地でもあるがです。

田岡嶺雲は明治3年(1870)に生まれ、本名は佐代治。

幼少時より自由民権運動の感化を受け、演壇に立ったこともあると言う。

明治23年(1890)、上京し水産伝習所(現・東京海洋大学水産学部)に入学、後に東京帝国大学文科大学漢文学科選科(現・東京大学文学部)に転学卒業しちょります。

水産伝習所時代の師、内村鑑三の「偽君子となるな」の教訓を終生肝に銘じたたと言う。

東京帝国大学の同期にゃ、大町桂月が居る。

大町桂月誕生地 - 碑文の書を書いた林譲治から、話は幕末へ 2011.04.17
「乙女の像」との関係 - 大町桂月誕生地 2009.01.03
名月酒供養祭 - 大町桂月 2009.01.04

大学在学中に評論活動を始め、樋口一葉や泉鏡花の作品を高く評価した。

その後、一時期には岡山県津山で学校教師も勤めたが、長くは続かず、再び上京してからは新聞各紙の記者として、ジャーナリスト兼評論家として、『平民新聞』や『帝国文学』、『太陽』などで執筆を続けた。

日露戦争後の明治38年(1905)に刊行した『壺中観』が社会主義に関する本として、続刊の『霹靂鞭』も、相次いで発禁処分を受け、その頃から権力に反抗する立場から、非戦論・資本主義批判の論調での執筆活動が多くなっていった。

1909年には、自由民権運動のなかで起きた秩父事件などの武装決起事件の関係者からの聞き書きを元に『明治叛臣伝』を著した(実際は、弟子の田中貢太郎が大半の著述を担当した)。

1910年、大逆事件の容疑で幸徳秋水が湯河原で捕縛されたとき、その場面を目撃した。このころから脊髄を病み、歩行も困難になり、大正元年(1912)療養先の日光で世を去った。

43歳。

【参考・引用】 田岡嶺雲 - Wikipedia


田中桃葉記念碑 2009.12.29 

田岡嶺雲生誕地碑の左には、木村久寿弥太氏邸跡碑がある。

この碑は、田岡嶺雲の実・次兄の久寿弥太が木村家の養子になり木村姓を名乗っちょり、後年、この地を高知市に寄贈した事により建てられた碑のようです。


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