長宗我部信親 - 戸次川の戦いで討死

長宗我部信親墓所

[ 高知県高知市長浜・雪蹊寺 ]


永禄8年(1565)長宗我部元親の長男として生まれ、幼名を千雄丸と言い、仮名:弥三郎。

幼少時から聡明であったため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。

このとき、信長から左文字の銘刀を与えられたと言う。

その後、父・元親に従って各地を転戦し、信長没後の天正13年(1585)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、四国の覇者から転落して豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となっちょります。

天正14年(1586)の豊臣秀吉の命により九州の島津氏を打つため九州の役に出陣し、父・長宗我部元親の嘗ての宿敵じゃった十河存保・仙石秀久と、戸次川の戦いの陣を構えるがです。

戸次川の戦いにおいて、仙石秀久の作戦案に対し、長宗我部氏や十河存保は共に反対するが、最終的には仙石秀久に従がう。

当初は、島津家主力に対し善戦するが、作戦が失敗し仙石勢の敗走をきっかけに全軍が壊乱状態となり、長宗我部信親や桑名親光、十河存保らは敵中に孤立してしまうがです。

そいて、薩摩勢の猛攻により指揮系統は分断され、乱戦の中で父・長宗我部元親の消息も分からないまま孤立した信親は、一歩も引くことなく中津留河原にふみとどまり、織田信長から拝領した左文字の太刀を振るって激戦の末、島津勢の新納忠元隊の軍奉行だった鈴木大膳に討ち取られたがです。

享年22歳。

この戦いで、長宗我部家臣700人も共に討死しちょります。

その遺骸を、島津氏から受け取る使者として交戦中の新納忠元のもとへ赴いたのは、谷忠兵衛じゃった。

一宮城跡 - 谷忠兵衛の命を掛けて長宗我部に尽くした二つ史実 2011.10.14

長宗我部信親の遺骸は、高野山に埋葬され、後に分骨され土佐の天甫寺に葬られるがですが、後に天甫寺は廃寺となった為、長宗我部信親の墓は雪蹊寺に移されたがじゃそうです。

【参考・引用】 / 長宗我部信親 - Wikipedia


毘沙門堂と毘沙門の滝 - 長宗我部信親所縁の地 2011.07.16
三嶋神社 - 脱藩の道と土佐七守護・津野氏に所縁の地 2010.05.25


MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment