奥宮慥斎 - 門人たちに尊王の大義を鼓吹する

奥宮慥斎

奥宮慥斎


[ 東京都台東区谷中・谷中霊園 ]


奥宮慥斎は文化8年(1811)に土佐郡布師田村(現・高知市)の藩吏・奥宮正樹の長男として生まれ、名は正由、通称、忠次郎・周次郎、慥斎は号で、幕末から明治維新期にかけての儒学者・陽明学者・神道学者・禅学者ながです。

廣井磐之助の墓碑の裏面に刻まれちゅう「渡揖雄撰 奥宮禮書」の碑文の奥宮 禮(奥宮暁峰・正路)は、弟になるがです。

剣は土方半左衛門に学び、生まれつき鋭敏な人じゃっとようで、土佐勤王党・武市瑞山の実弟でもある田内衛吉の義父・田内菜園に国学と和歌を学んじょります。

また、儒学も多くの勤王の志士たちにも影響を与え、岩崎弥太郎の伯父にもなる岡本寧浦に学んじょります。

成長するに従い、土佐藩の藩学・朱子学に疑問を感じ、王陽明の学を尊信するようになる。

文政12年(1829)、13年(1830)と江戸に出て、陽明学者・佐藤一斉の門に入り、「愛日楼塾」で陽明学を3年間学んじょります。

帰国後、私塾「蓮池書院」を開き、また藩校・到道館で儒学を教えるが、陽明学に対する排撃が強く、屈しはしなかったけんど、結局、江戸に左遷されちょります。

この時じゃけんど、安政元年(1854)江戸詰めとなった奥宮慥斎の従者として江戸に出たがが、後の三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎ながです。

安政3年(1856)に帰国し、再び藩校・致道館で6年間教授として勤めちょります。

幕末、尊皇攘夷論が沸騰するに及び、大石弥太郎・武市半平太など憂国の志士と交わり時勢を痛論し、慥斎の講義所に集まった門人たちには尊王の大義を鼓吹し、下士・軽格組の勤王党援助者の観があり、慶応元年(1865)閉門に処せられちょります。

門人にゃ、島本仲道・長岡謙吉・中江兆民らがおる。

維新後は新政府の教部省に勤務し、大教院・大講義などを歴任する。

明治6年(1873)の板垣退助・古沢滋・小室信夫・古沢滋らの起草した「民選議院設立建白書]を修正潤色した事でも知られちょります。

明治10年(1877)、67歳で亡くなっちょります。

墓所は、東京の谷中霊園にある。

【参考・引用】 / 『高知県人名事典』 高知新聞社

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