武市熊吉・喜久馬墓 - 岩倉具視をビビらせた男たち

武市熊吉・喜久馬墓

[ 高知県高知市筆山 ]


武市熊吉・喜久馬兄弟は、土佐国土佐郡潮江村(高知市)生まれちょります。

兄・武市熊吉は天保11年(1840)に生まれ、諱は正幹,通称・熊吉と言い、戊辰戦争じゃ甲州勝沼や北関東の戦闘で武功が有り、維新後は陸軍大尉となり、明治5年(1872)にゃには外務省出仕となっちょります。

参議・西郷隆盛,板垣退助らの密命を帯びて,薩摩出身の池上四郎と共に満州(中国東北部)に出張,軍事的偵察を遂げて明治6年(1873)4月に帰国復命しちょります。

けんど明治6年(1873)10月に政府内で起きた征韓論争に敗れた征韓派参議の西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野したことにより、征韓論に期するところのあった不平士族らにとって、いっそうの不満を高めることとなり、矛先は急病により一線を退いた太政大臣・三条実美に代わって、論争を主導した岩倉具視や大久保利通に対する恨みは次第に増大して行ったがです。

明治7年(1874)1月14日夜、「喰違の変」と呼ばれる事件は起こるがです。

赤坂の仮皇居から退出して自宅へ帰る途中、岩倉具視の乗った馬車が、赤坂喰違坂で襲撃者たちに急襲されるがです。

この襲撃で岩倉具視は眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため一命を取り留めたけんど、岩倉具視は襲撃された事が相当ショックじゃったようで精神的な動揺は大きく、公務復帰は1箇月後の2月23日となっちょります。

また、この療養中の明治7年(1874)2月に、征韓論問題で下野した江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、島義勇、副島義高らを擁する憂国党による旧・佐賀藩士を中心とした「佐賀の乱」も起こっちょります。

「喰違の変」は、以後続発する士族による乱の前哨戦のような事件じゃった。

しかし暗殺は未遂に終わり、事件の知らせを聞いた大久保利通は、ただちに警視庁大警視・川路利良に早急な犯人捜索を命じ、事件の3日後の1月17日に武市熊吉ら9人はが逮捕されるがです。

実は、この9名は全員、征韓論争に破れ下野した西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らに従って職を辞した元官僚や軍人で、それも全員・高知県士族の土佐人じゃったがです。

そいて明治7年(1874)7月9日、武市熊吉ら9人全員は斬罪に処されたがです。

首謀者の武市熊吉(35歳)、弟の武市喜久馬(28歳)、山崎則雄(23歳)、島崎直方(37歳)、下村義明(32歳)、岩田正彦(26歳)、中山泰道(33歳)、中西茂樹(26歳)、沢田悦弥太(26歳)の総勢9人。

しかし、士族たちの恨みは収拾せず、4年後の明治11年(1878)、皮肉にも「喰違の変」の事件の起こった喰違見附の近くの紀尾井坂で、石川県士族・島田一良らに襲撃されて、大久保利通は暗殺されると言う「紀尾井坂の変」が起こるがです。

【参考・引用】

『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会
喰違の変 - Wikipedia




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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