平井善之丞 - 土佐勤王党の武市瑞山に好意的に協力

真邊戒作墓

[ 高知県高知市筆山 ]


平井善之丞は享和3年(1803)に生まれちょります。

土佐藩第13代藩主・山内豊煕のもとで、天明の改革の大目付として藩政刷新にのりだしたけんど、天保14年(1843)、土佐藩の保守派が対立していた急進改革派(おこぜ組)を投獄する「おこぜ組の獄」が起こり、ほとんど成果を挙げることなく挫折し辞職しちょります。

土佐藩第13代藩主・山内豊信の時、武市瑞山の土佐勤王党が台頭し小南五郎右衛門や渡辺弥久馬らが藩に登用され、平井善之丞も大目付として登用され、土佐勤王党の武市瑞山に好意的に協力するけんど、吉田東洋が仕置役に登用されると対立し、再び辞任するがです。

文久2年(1862)吉田東洋が暗殺されると大監察に復職する。

文久3年(1863)1月25日に入京した山内容堂は、青蓮院宮から平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太が藩政改革を断行しようとして画策している事を聞き、僭越の沙汰である」と激怒して罷免した上で土佐へ送還させ、切腹させた「青蓮院宮令旨事件」が起こる。

同年3月に土佐に戻んた山内容堂は、帰国するや吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に協力しよった大監察・小南五郎右衛門、国家老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされ、これ以降、政治の表舞台から去り蟄居しちょります。

そして、八月十八日の政変を切欠に、土佐勤王党の獄が始まるがです。

慶応元年(1865) 63歳で亡くなっちょり、維新後、従四位を贈られちょります。

【参考・引用】『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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