岡碩菴(医者) - 医者として三条実美の先祖の娘"法雲院"付きに

岡碩菴(医者)

[ 高知県高知市小高坂・三の丸 ]


岡碩菴の生没は定かじゃないがですが、岡文左衛門の次男に生まれちゅう。

その父・岡文左衛門は土佐藩初代藩主・山内一豊が、まだ近江の長浜城主じゃった頃に召し出され、土佐に入国後知行百石を賜り、慶長11年(1606)より見性院様付きとなり京都で没しちょります。

京都で没したと言う意味は、慶長10年(1605)秋に山内一豊が亡くなると、見性院(千代)は、二代藩主の座を山内一豊の同母弟の康豊の長男・山内忠義に譲り、土佐を去り京都の妙心寺近くに移り住み余生を過ごしちょります。

父・岡文左衛門は、その見性院(千代)の警護の為に京都に赴いちょったがですねー。


当の本人・岡碩菴は明暦4年(1658)に四人扶持合力米十石で医師として召し出され、寛文10年(1670)に土佐藩第4代藩主・山内豊昌の奥様付となり知行百五十石となっちょります。

延宝3年(1675)病気のため願って江戸在住を許され、延宝5年(1677)嗣子・又四郎が跡目を継いだとあるき、この間に没しちょるようです。

【参考・引用】『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会



因みに、この頃にゃ、諸大名の奥方らーは徳川幕府の人質の意味もあり、江戸藩邸で暮らしよった。

じゃき、岡碩菴が土佐藩第4代藩主・山内豊昌の奥様付となって、勤めよったのは江戸ながです。

また、土佐藩第4代藩主・山内豊昌の奥様ちゅうのは正室が伊予国松山藩第2代藩主・松平定頼の娘・仙寿院、側室は三条公富の娘・法雲院と言う人ながです。

この三条公富の10代後が、「三条実美」になるがです。

文久3年(1863)の公武合体派の公家と薩摩藩と会津藩らが起こした八月十八日の政変で、都を追われ長州へ逃れた世に言う「七卿落ち」の中の一人が三条実美ながですねー。

土佐藩出身の多くの勤王の志士らが護衛や警護に随行したり、また太宰府の延寿王院に滞在しちょった三条実美を坂本龍馬も訪ねちゅう。

更には、平井修二郎の妹・加尾も、安政6年藩命により山内容堂の妹「友姫」が三条実美の兄公睦に嫁したとき、御付きの奥女中として4年間”京”で仕えちゅうき、当然、面識もあったろう。

今回は記事の主役・岡碩菴さんにゃ無関係じゃけんど、関連事項から引っ張って引っ張って、無理やり幕末に結び付けてみました。・・・・・(^^ゞ


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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