谷干城の墓 - 薩長藩閥とも距離を置き、土佐派の重鎮として




[ 高知県高知市西久万 ]


谷干城は、天保8年(1837)、儒学者・谷万七(通称)の第4子として土佐国高岡郡窪川村(現・窪川)に生まれちょります。

父は高知城下から土佐国高岡郡窪川村に居を移し儒医として、文武を教え医を行ちょったそうですが、弘化3年(1846)に高知城下の教授館の教授になった事から、高知城下に帰り士格として独立しちょります。

高知城下で居を構えたのは、父・万七の祖父・谷垣守と兄・真潮邸の直ぐ隣になる。

因みに、谷丹三郎重遠(号・秦山)は父・万七の祖祖父になる。

後年、その高知城下で住まいした住居は、植木枝盛が主となるがです。

何時もの癖で前置きが長うなったけんど、谷干城は号・隅山と言う。

江戸に遊学しての帰途、武市瑞山と会談して志を国事に傾ける。

到道館助教授、小目付役を務めちょります。

坂本龍馬を尊敬し、龍馬が暗殺された際、真っ先に現場に駆けつけ中岡慎太郎から暗殺の経緯を聞きだしたのも、谷干城じゃった。

後、薩長土の倒幕の密約に参加し、戊辰戦争東征には大監察として参戦し武勲をたてちょります。

以前に御紹介済みの「谷千城旧邸跡」の記事でも書いちゅうけんど、谷干城の名を有名にした出来事は明治10年(1877)の西南の役で西郷軍と戦い熊本城を死守した事じゃろーねー。

明治44年(1911)、75歳で亡くなり、墓は谷干城旧邸跡裏山にある。

写真のように、先祖の家訓に倣い(ならい)河原石を積み上げた墓所の上に、ざまぁな自然石を此処まで引っ張り上げ載せたがは当時の若者たちで、彼らの心意気と、谷干城に対する畏敬の念が、そうさせたのじゃろーと思うちょります。

[ 参考・引用 ]  『土佐の墓』 山本泰三・著




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