南部静斎 - 長男は土佐勤皇党・南部展衛



[ 高知県高知市・潮江山高見 ]


南部静斎は文化12年(1815)、高岡郡大野見(現・中土佐町に合併)の郷士の南部忠基の嫡男に生まれ、通称・従吾、名を忠克、号を静斎と言う、陽明学者ながです。

江戸で陽明学を学び、土佐に帰国後、久万に私塾を開き、子の南部展衛(甕男)、武市瑞山、吉村虎太郎、谷干城らを教えちょります。

吉田東洋に抜擢され、安政の改革の考察役として任に就くが、官務の才に長けていないと東洋に疎んじられ、悲憤慷慨して、万延元年(1860)切腹しちょります。

46歳。

因みに、悲憤慷慨(ひふんこうがい)とは、”世情や自分の運命などについて、憤慨し、嘆き悲しむこと”。

その吉田東洋も、皮肉にも、また別の意味で暗殺されちょります。


南部静斎の嫡男・南部展衛は弘化2年(1845)に生まれ、通称・忠助、のち展衛、名を直成、のち甕男(みかお)、変名を盛岡展太郎と言う。

土佐勤王党にゃ82番目に加盟しちょります。

文久3年(1863)藩命により京都に上り、尊王派の志士と交わったり、三条実美の護衛を勤めるが、八月十八日の政変で世に言う七卿落ちに随従して長州に逃れちょります。

翌年の元治元年(1864)に起こった禁門の変にゃ、中岡慎太郎・真木外記・長谷部鉄之進の三名が隊長を務めた忠勇隊の一員として戦うが、堺町門の戦いに破れ、再び長州に敗退する。

慶応3年(1867)、大政奉還後の形成が逆転すると三条実美らと京に戻り、翌慶応4年(1868)の戊辰戦争にゃ書記件斥候を命じられ、従軍しちょります。

新政府じゃ、明治元年(1868年)兵部少録任官を皮切りに、同8年(1875年)7等判事、同9年(1876年)熊本裁判所長、同13年(1880年)神戸裁判所長、同14年(1881年)司法権大書記官・民事局長、同24年(1891年)大審院長心得(兼大審院部長)、東京控訴院長など、主に司法畑の要職を歴任しちょります。

同29年(1896年)男爵に叙せられ、同年10月に大審院長に就任する。

同39年(1906年)7月の退官した後は枢密顧問官をつとめ、法曹会の設立にも尽力したと言う。

大正12年(1923年)、享年79歳でみてちょります。

[ 参考・引用 ]

■ 『高知県人名事典』 高知新聞社
■ 南部甕男 - Wikipedia




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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