森本茂吉 - 堺事件・八番目に切腹

森本茂吉 - 堺事件
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森本茂吉 - 堺事件

[ 高知県高知市大津 ]


森本茂吉(もきち)は、天保元年(1830)に生まれ、名を重政と言う。

悲劇が起こったのは、明治維新がなったとは言え、志士達の多くが攘夷論を掲げ戦った直後の、慶応4年=明治元年(1868)2月15日、泉州堺表警備八番隊隊士として警備中の事じゃった。

フランス領事一行が大阪から陸路、堺に入ろうとしたが、外国事務局からその通報の無かった警備の土佐藩兵はこれを阻み、中途で引き返させた。

同日夕刻、領事一行を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクスは堺港に入り、士官以下数十名の水兵が上陸、市内を徘徊した。

土佐藩軍艦府は、警備の藩兵に取締を命じ、帰艦を諭示させたが、言葉が通じず、混雑もあって、水兵側は土佐の隊旗を倒伏、逃亡しようとした。

このため、土佐藩側はこれを捕らえるのではなく咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷または、海に落として溺死させた。

土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。

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フランス公使は20名の切腹を要求し、事件に関わった29名の者が現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて切腹する者を決めた。

2月23日(3月16日)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。

切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行った。

その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長デュプティ=トゥアール(Dupetit-Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代才助に中止を要請し、結果として9人が助命された。

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処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流され庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後明治新政府の恩赦により帰郷した。

参考・引用/堺事件 - Wikipedia


これが堺事件なが・・・・・。

最初に切腹の座に着いたのは、箕浦猪之吉じゃった。

その後は、籤引き(くじびき)で決めた順に切腹の座に着き、8番目に切腹したのが森本茂吉 享年39歳じゃったと言う。

辞世の句 『人心 くもりがちなる 世の中に 清き心の 道ひらきせん』

彼らは皆、職務に忠実に働いただけじゃけんど、フランス兵たちの暴挙から始まった騒動の始末として、理不尽にも堺事件11烈士は切腹させられたがです。

この墓は遺髪墓で、本墓は堺市の妙国寺隣の宝珠院に土佐藩士11名の墓がある。

土佐(高知)じゃ、坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太らーしか陽が当たらんけんど、明治維新を創り上げたのは何も幕末の志士達だけじゃのうて、新しい世になった「明治」と言う基盤を固めるために、堺事件11烈士や戊辰戦争に従軍し、生死をかけての奮戦した人々の犠牲の上に築かれちゅう事を忘れちゃーせんかよ。

その中にゃ、名も亡き人が多くおる事を忘れたら、彼らは浮かばれんろー・・・・・。

彼らも、もっともっと顕彰するべき偉人達ですき。

[ 参考 ]
■ 『高知県人名事典』 高知新聞社
■ 土佐烈士・堺事件(森鴎外の「堺事件」全文)
■ 『堺港攘夷始末』 大岡昇平
■ 「俄 -浪華遊侠伝-」 司馬遼太郎


場所は、歴史写真家・前田秀徳氏とちょっと大津界隈を自転車で散策した時、ご案内いただきました。

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