山崎立生 - 戊辰戦争・松山討伐に軍医として従軍


山崎立生墓山崎立生墓
山崎立生墓

[ 高知県高知市筆山 ]


山崎立生は文政12年(1829)に高岡郡佐川村(現・佐川町)の医師・山崎燮堂(やまさき しょうどう)の次男として生まれちょります。

幼少より父より医学を学び、後に大坂に出て斉藤方策塾に入門し、嘉永2年(1849)にゃ紀州の華岡青洲の末弟・華岡鹿城(良平)が開いた華岡塾「合水堂」で、外科医術を学んじょります。

さらに長崎に渡り、オランダ出身の医師・ボードウィンに西洋医学も学んじょります。

因みにボードウィンは、眼科に優れた人で日本に初めて検眼鏡を導入したし、それに日本に持ち込んだ健胃剤の処方が日本人に伝播され、その後、改良され形状・成分の変更などはあるものの、我々も時々お世話になっちゅう太田胃散と守田宝丹へと受け継がれちょります。

土佐に戻んて土佐藩家老の佐川・深尾重先の典医となり、文久3年2月に京都に随従しちょります。

戊辰戦争の松山討伐の際にゃ軍医として従軍し、明治3年(1870)にゃ高知藩兵の軍医として東行しちょります。

明治7年高知病院が発足した時、助教授となるが、まもなく高知城下・帯屋町に開業しちょります。

「医は仁術なり」を心がけ、親切な治療を行ったそうながです。

明治13年(1880)、楠正興、岡村景楼と共に医師を養成するため私学医学校を創設するが、翌明治14年(1881)、53歳で亡くなっちょります。

墓碑は「紀 禮撰并書」と刻まれちょり、奥宮禮(晩峰)じゃった。

因みに、奥宮の読みは「おくみや」ではなく「おくのみや」です。

■ 参考・引用/『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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