伊藤和兌 - 武市半平太や五十嵐文吉らと交わり国事に尽力

伊藤和兌墓
伊藤和兌墓伊藤和兌墓
伊藤和兌墓伊藤和兌墓

[ 高知県高知市薊野 ]


伊藤和兌は文化12年(1815)辰巳屋本家5代・勘右エ門中強の長男として生まれ、通称・善平、名を始め和兌、号を怡然と言う。

平田鉄胤に国学を学び、漢文にも通じ武技にも優れた人じゃったそうです。

辰巳屋の初代・太郎右衛門は、土佐藩の保護の下で醤油製造を独占して豪商になったと言われちょり、租祖父・義強の頃に郷士になっちょります。

文久3年(1863)の2月の将軍家茂の入京の際じゃと思うがですが、山内容堂に従って入京し、容堂は3月21日に土佐の海防強化を理由に土佐へ帰国するがですが、帰国後、伊藤和兌は武市半平太や五十嵐文吉ら勤皇の志士らと交わるようになるが。

この頃から、土佐には風雲が立ち込め始め、4月23日に上士でありながら土佐勤王党を支援しよった大目付・小南五郎右衛門と渡辺弥久馬、尊皇攘夷派じゃった国家老・深尾鼎の奉行職等々、藩政から遠ざけるようになっていくがです。

深尾鼎は、佐川深尾家10代目で、3代目の分家筋に山内規重が居る。

また、青蓮院宮の令旨事件を利用して、平井収二郎や間崎哲馬、広瀬健太を切腹させ、更に追い討ちをかけるように八月十八日の政変が起こると、一気に佐幕派が巻き返し、武市半平太は投獄され、土佐勤王党に対し激しい弾圧が始まったがです。

そんな中でも、勤皇の志士らのために資産を提供し援助したり、藩命により長州に状況視察にも赴いたりと、国事のために尽力し奔走しちょります。

この親にして、やはり子も子・・・・・。

その子ちゅうがは、名を伊藤甲之助と言う。

もしかしたら、息子の伊藤甲之助の方が先に土佐勤王党に加盟しちょりましたき、その影響もあったのかも・・・・・。

慶応4年(1868)の戊辰戦争にゃ高松討伐、東征に参加し、軍功によって留守居役4人扶持になっちょります。

息子も親も、誰の命令でもなく、国を思って国事に奔走したがでした。

明治11年(1878)、64歳で亡くなっちょります。

墓碑は、奥宮禮が書いちょります。

奥宮禮は、勝海舟の題字が彫られた廣井磐之助の墓碑の裏面に刻まれた渡揖雄撰が有名ながですき。

■ 参考・引用/『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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