山内規重 - 土佐藩第8代藩主・山内豊敷の父

五十嵐幾之助墓

[ 高知県高知市五台山 ]


山内規重(やまうち のりしげ)は天和2年(1682)に、佐川・深尾家に生まれちょります。

佐川・深尾家初代で土佐藩家老じゃった深尾重良の5代後の子孫ながです。

子孫と言うても深尾氏の直系でもないし、佐川・深尾家の分家の一つ・・・・・。

佐川・深尾氏累代の墓所 2010.09.29

初代・深尾重良にゃ子が無く、後に深尾重忠と言う、深尾新六重三の子が養子となっちょった。

義父・深尾重良は、山内一豊が土佐入国の際から一万石の首席家老になり佐川を治めたが、深尾重忠は徳川幕府の人質となって16年間妻子と共に江戸に居った。

何処の家も、何れは誰が家督を継ぐのかと言う問題に直面するけんど、佐川・深尾家にも、その日がやって来るがよ。

前述のように、既に深尾重忠と言う養子が居るにも関わらず、義父・深尾重良は土佐藩第2代藩主・山内忠義の公命により、土佐藩初代藩主・山内一豊の弟・山内康豊の3男・出羽重昌を養子とし、重忠の娘と配して家名を継ぐ事を余儀なくされるがです。

山内一豊の弟・山内康豊の3男と書いたけんど、当の土佐藩第2代藩主・山内忠義の弟でもあるがですき、ようするに山内家による、強引なお家乗っ取りなが・・・・・。

藩命とは言え、余りの強引なやり方に、義父・深尾重良も一時は土佐を退転した程じゃそうです。

結局、松平越中守ら大名達の取り成しで事態は収拾され、佐川・深尾家は土佐藩第2代藩主・山内忠義の思惑通り弟・出羽重昌が2代目となり、先に養子となっていた深尾重忠は、別に土佐・深尾家を興すがです。

そんで、騒動の慰謝料のようなもんじゃろーけんど、義父・深尾重良の隠居料二千石を加増して五千石の国家老となったが。

その8代後の子孫・土佐藩家老・深尾弘人蕃顕(ふかお ひろめしげあき)が住んじょった通称「ひろめ屋敷」があった場所が、今や高知市の観光スポットの一つになっちゅう『ひろめ市場』ながです。

『ひろめ市場』の名の由来は、此処から・・・・・。

棒高跳び記録 - ひろめ市場 2009.03.15
ひろめ市場 2009.03.03
ひろめ市場 2008.03.24

こじゃんと前置きが長うなったけんど、駆け足で記事の主役・山内規重に戻すけんど、土佐藩第5代藩主・山内豊房のもとで奉行職や家老となり緊縮財政政策を採用するなど補佐しちょります。

後を継いだ土佐藩第6代藩主・山内豊隆の時、宝永4年(1707)に起こった宝永の大地震に見舞われ、その処理等だけではないけんど、意見が合わず罷免されるがです。

また、ちょっと寄り道じゃけんど、土佐藩第6代藩主・山内豊隆は、山内規重だけじゃのうて、谷秦山や深尾重方と言った有能な重臣たちを次々と粛清したことから評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われちゅう無能な藩主じゃったと・・・・・。

その後一端は復職するけんど、正徳元(1711)年に深尾・孕石両家の婚姻を藩主・山内豊隆が気に入らず、連座と言う形で禄を奪われ蟄居を命ぜられ、土佐国香美郡山北村(現香南市)に幽閉されたるがです。

豊隆死後、蟄居を解かれ、土佐藩第7代藩主・山内豊常の藩主補佐役に起用され江戸に出るが、江戸在住1年目に、40歳で死去しちょります。

因みに、土佐藩第8代藩主・山内豊敷の父でもある。

■ 参考・引用/『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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1 Comments

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A さんへ  

Re: 御存知でしょうか?

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御尋ねの件、関わりが在るか否かは判りませんが、高知県人名事典に幕末期、400石取の中老だった安田幸正の名はあります。それ以上は判り兼ねます。

2017/06/07 (Wed) 11:32 | A さんへさん">REPLY |   

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