五十嵐幾之助(敬之) - 土佐勤王党に152番目に加盟

五十嵐幾之助墓

[ 高知県高知市薊野 ]


五十嵐幾之助は天保8年(1837)に高知城下廿代町の白札郷士・五十嵐文吉の長男として生まれ、初名を幾之助または文四郎と言い、父の名を継いで敬之(たかゆき)と言うがです。

父の文吉も武市半平太から師と慕われる程の人じゃったがですが、五十嵐幾之助も「親が親なら子も子」とも言えるような人じゃったと言う。

土佐勤皇党にゃ152番目に加盟しちょります。

文久2年(1862)6月に藩命で藩主・山内豊範の上洛に随行して父・文吉と京に出ちょり、以後、諸藩の志士達と交わり国事に奔走するがですが、

文久3年(1863)八月十八日の政変以降、土佐勤皇党への弾圧が始まり武市半平太や仲間たちが投獄されると、父・文吉と土佐に留まって半平太や同志らーの釈放運動に尽力しちょります。

その間、他の同志たちの多くは脱藩して行ったが、慶応元年(1865)閏5月11日武市半平太が切腹となると、その遺骸を長棒の駕籠に乗せ自宅まで送り届けた土佐に残った仲間たちの一人が五十嵐幾之助じゃった。

最後まで、武市半平太と土佐勤皇党への忠誠を誓った一人じゃった・・・・・。

慶応4年(1868)の戊辰戦争にゃ土佐藩の胡蝶隊として各地を転戦し、迅衝隊七番隊長と胡蝶隊隊長じゃった山地忠七(元恒)を助け戦功を挙げちょります。

因みに迅衝隊とは、土佐勤王党の生き残りの仲間たちや郷士を主力とする兵員数約600余名の戦力じゃったけんど、胡蝶隊は馬廻格以上の上士格・約400名で組織された土佐藩の倒幕部隊ながです。

武市半平太も白札格じゃったけんど、「白札」とは藩に対し功績をあげ認められた者で郷士(下士)であっても上士格の扱いじゃったがです。

五十嵐幾之助も安政4年(1857)に、歩行格になっちょりますき、前述の藩主・山内豊範の上洛に随行できたがです。

明治維新後は、自宅で子女を導き諸芸、諸道を授けたと言う。

明治27年(1894)の日清戦争の際にゃ、58歳の身でありながら特に志願して戊辰戦争で戦った胡蝶隊隊長じゃった山地忠七(元恒)の旅順攻撃隊に隊付として従軍したそうながです。

人に惚れ、人に尽くし、己を貫き通した人・五十嵐幾之助は、大正6年、81歳で天寿をまっとうしちょります。

■ 参考・引用/『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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