称名寺 - 長宗我部元親・石田光成・山内家にも関係するお寺さん

称名寺(高知市)
称名寺(高知市)

[ 高知県高知市枡形 ]


現在、枡形に浄土宗西山禅林寺派皓月山称名寺と言うお寺さんがある。

明治16年(1883)に京都禅林寺派の塔頭帰命院をこの地に移し称名寺と改称し、明治維新後の廃仏稀釈で廃寺となっちょった称名寺を中興開山したがじゃそうです。

明治維新まであった元の称名寺は寛永9年(1632)浦戸にあった称名寺を高知城下に移し、土佐藩第2代藩主・山内忠義内室の菩提寺になったとあるがじゃき、長宗我部の時代から浦戸にあったお寺ながです。

前述の土佐藩第2代藩主・山内忠義の内室とは、松山藩藩祖になる松平定勝の2女・阿姫と言う人で、伯父になる徳川家康の養女となり、11歳の時に山内忠義のもとに輿入れしちょりますが、寛永9年(1632)に江戸藩邸において38歳で亡くなっちょります。

本来、山内家は曹洞宗じゃけんど、徳川家は浄土宗じゃそうですき、そうした関係で土佐に帰国後、称名寺で法要が執り行われたそうながです。

当方は、実際には見ちゃーしませんけんど、知り合いのNさんの話じゃと、寺の中に葵の紋所があると言うちょりましたき、多分、この阿姫に関しての事じゃと思われます。

その後、万治3年(1660)火災に合い、寛文2年(1662)潮江村に移り、明治維新まであったと言う由緒あるお寺さんじゃったがです。

そんで、潮江村に移るまであった寺の跡地は、藩の米蔵が建ったそうですき、場所的にゃ坂本龍馬の継母・伊与(伊興)さんの実家のあった現在の九反田界隈じゃと思われます。

また、現・九反田界隈にあった頃の称名寺に関する、もう一つの話が残っちょります。

慶長5年(1600)に関ヶ原の戦で敗れた石田三成の幼女が、乳母に抱かれて称名寺の住職を頼って土佐へ逃げて来たそうです。

まだ、この頃の土佐は西軍に付いて敗けたとは言え、長宗我部の国でしたき・・・・・。

けんど、その幼女は腫物を病んで7歳で亡くなったそうで、文政年間(1818-30)に石田光成の幼女を供養したと思われる地蔵尊と「天周妙終尼慶長十八年六月二十二日」と刻まれた石碑が、米蔵の下から発見されたそうながです。

その地蔵尊と石碑が幕末期に、米蔵のあった北側の堤上に安置され、庶民から腫れ物に効くと信仰されされたそうです。

これが、現在の九反田地蔵尊ながです。

九反田地蔵尊 2009.04.11

あったとされる場所が、「米蔵のあった北側の堤上」とあるき、多分、現在の新堀川の土手上の何処かで、その後に今の場所に移されて祀られちゅうがですろーかねー・・・・・。

因みに、現在の称名寺にある本尊の阿弥陀如来は、天正11年(1583年)長宗我部元親が讃岐の志度寺に攻め込んだ時、安置されちょったものを土佐に持ち帰り、浦戸城に安置しちょったそうです。

今は観光スポットでも何でもないけんど、昔あった称名寺は土佐の歴史にも関係するお寺さんじゃったがです。


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