一宮城跡 - 谷忠兵衛の命を掛けて長宗我部に尽くした二つ史実

一宮城跡

[ 高知県高知市一宮東町 ]


一宮東小学校の北側にある東山は、『土佐国古城略史』によると長宗我部氏の支城で、城主は一宮の神職でもあった谷忠兵衛と伝わると記されちょります。

谷忠兵衛は忠澄と言い天文3年(1534)に生まれ慶長5年に67歳で亡くなっちょります。

「一宮の神職」とは土佐神社の神主さんじゃった人で、長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交・行政方面で活躍しちょります。

現在の土佐神社の本殿などの再興にも、関わっちょります。

天正13年に豊臣秀吉の四国攻めの時、阿波一宮城(現・徳島市一宮町)に守将・江村親俊と共に籠城し城を守って奮戦したけんど、豊臣勢の激しい攻撃は城中の水源を断たれ坑道をうがって城を物理的に掘り崩されようになると、城を守りきれないと江村親俊と谷忠澄の2人は開城を決意し元親を説得しするがです。

最初、長宗我部元親は『一度も決戦せずに降伏することは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すべきである』と主張し、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し切腹を申し渡されるが、それでも谷忠澄は一歩も引かずに重臣たちを説き伏せ、最終的には家臣連名で元親に再考を願い、豊臣秀長の停戦条件を呑んで和議を成立させちょります。

参考・引用/谷忠澄 - Wikipedia


また翌年の天正14年(1586)の豊臣秀吉の九州平定の際の戦、「戸次川の戦い」で長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が島津軍の新納忠元敵に討たれるがです。

毘沙門堂と毘沙門の滝 - 長宗我部信親所縁の地 2011.07.16

その遺骸を島津氏から受け取る使者として交戦中の新納忠元のもとへ赴いたのは、谷忠兵衛じゃった。

新納忠元は、忠澄を丁重に遇して信親の戦死に涙を流して陳謝し、長宗我部信親の遺骸を火葬にし受け取ると、遺品と共に高野山に登り、遺灰を奥の院に納め一緒に闘って亡くなった将兵700名余りの供養塔も建てたという。 

「戸次川の戦い」では、谷忠澄自身も長男・谷彦十郎が討ち死にしちゅうが・・・・・。

因みに、土佐神社の神職は谷忠澄の三男・谷加兵衛が家督を継ぎ受け継がれちょります。

また、谷忠澄の兄弟の系統からは、谷秦山-谷垣守-谷眞潮や、谷干城へと続いて来るがです。

谷千城旧邸跡 - 硬骨の土佐人 2011.09.10
谷垣守・真潮邸跡 - 谷家の学問が尊王思想を説く 2011.07.03



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