小松小太郎 - 龍馬の指示で北添佶摩らと蝦夷に渡るが函館で病死

小松小太郎墓

[ 高知県香美市土佐山田町 ]


小松小太郎は、天保14年(1843)現・土佐山田で鍛冶屋の三男に生まれちょります。

父、菊平が洋式銃の製作に関わっちょうった関係で高知城下に移り住み、小太郎も勉学の機会を得て経史と武術も学んじょります。

文武両道に励み神童と称され、特に手裏剣は名手じゃったとか・・・・・。

文久3年(1863)2月に北添佶摩らと脱藩して京に出、諸藩の勤王派と交流し、坂本龍馬とも接触する。

小松小太郎、北添佶摩、能勢達太郎、安岡斧太郎の4人は、坂本龍馬の説く蝦夷地開拓の話に興味を持ち、同年5月2日越前敦賀港より蝦夷地視察のために、函館に向けて出帆したがでした。

しかし、敦賀を出帆して間もない航海途中、小松小太郎は病にかかり、函館に着いて医師の手当てを受けるが甲斐なく、6月7日息を引き取ったと言う。

残された仲間達は、海の見える小高い丘に小松小太郎を埋葬したと言われちょります。

享年21歳。

国(土佐)を出て、僅か4ヶ月程の事じゃった・・・・・。

国事に奔走せず土佐に居ったら、もっと人生を謳歌出来たやに知れんと思うけんど、武士でもない鍛冶屋の息子の体の中で、本当の土佐人の熱き血潮が疼いたがでしょうか・・・・・。


因みに、北添佶摩ら3名は7月8日に江戸に戻っちょります。

京の浪人達を「無駄死」させないで蝦夷地開拓に連れて行こうと言う坂本龍馬の構想は、勝海舟の口沿いで光が指しかけた・・・・・。

しかし、6月5日「池田屋事件」が勃発する。

しかも、事件の関係者で死亡した中に、神戸海軍操練所の望月亀弥太と北添佶麿が居たため、坂本龍馬の描いた蝦夷地開拓の夢は頓挫したがです。

安岡斧太郎は、吉村寅太郎らの天誅組に参加し鷲家口で戦傷を負い津藩兵に捕えられ京都の六角獄舎に投獄され、元治元年(1864)斬首刑。

25歳。

能勢達太郎は、文久3年8月18日(1863)の政変後、土佐で土佐勤皇党に対する獄が始まると長州に走り忠勇隊に参加するが、翌・元治元年7月19日(1864)の禁門の変で敗れ、7月21日天王山で自刃しちょります。

23歳。

こうして4名とも、夢の途中で逝ってしまった・・・・・。

しかし、坂本龍馬の蝦夷地開拓の思いは潰えていなかった。

慶応3年3月6日の長州藩士・印藤肇宛の手紙の第4段にゃ、想い続けちょった蝦夷地開拓への思いが綴られちょります。

「小弟ハエゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間、何卒一人なりともやり付申べくと存居申候。」と。

蝦夷地視察をさせた小松小太郎、北添佶摩、能勢達太郎、安岡斧太郎への鎮魂の思いもあったがじゃないろーか。

何としても、蝦夷地開拓を成し遂げたいと・・・・・。

しかし、その坂本龍馬も手紙の日付から約8ヶ月後の、慶応3年11月15日33歳で凶刃に倒れる。

見果てぬ夢を追いかけて・・・・・。

参考・引用 / 『高知県人名事典』 高知新聞社

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2 Comments

オンチャン(とさっぽ)">

オンチャン(とさっぽ)  

Re: 履歴書の添え状 さんへ

オンチャン(とさっぽ)">

ありがとうございます。

2011/11/22 (Tue) 21:39 | オンチャン(とさっぽ)さん">REPLY |   

履歴書の添え状  

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

2011/11/22 (Tue) 11:21 | REPLY |   

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