浦戸一揆 - 長宗我部の滅亡

石丸神社
石丸神社説明板
石丸神社

[ 高知県高知市浦戸 ]


慶長5年(1600)、長宗我部家第21代当主・長宗我部盛親は関ヶ原の戦に敗れ、土佐は徳川に召し上げられる事になり、新たに領主となった山内一豊が入国する事になるがです。

まず山内一豊の弟・康豊を井伊直政の重臣・鈴木平兵衛と共に、浦戸城の受取役として送り込んで来たがです。

長宗我部家家臣・竹内惣右衛門は一領具足を率いて使者の宿舎となっちょった長浜雪蹊寺を包囲し、「戦に負けたとは言え長宗我部盛親に土佐半国を」と訴えるがですが、要求が無理となると浦戸城に立て篭もるがです。

徳川方は、長宗我部家臣団の重臣・桑名弥次兵衛と蜷川親長と秘密裏に接触し、「助命する代わりに篭城家臣団を討て」と掃討を命じたがです。

結局、野田右京や山川五郎左衛門らの同志らと謀り城の要所を固めると、徳川方に浦戸城を明渡してしもうたがです。

彼らは篭城が長引き話が拗れると、徳川に捕われの主君・長宗我部盛親の命が危ないとの思いもあったと言う事を書いた書物もあるけんど、元々土着の土佐人じゃない。

結局、土壇場で篭城しちょった仲間達を裏切った。

しかし最後まで降伏せんかった長宗我部の一領具足らは各地で戦い討ち取られ、首は大坂の井伊直政の許に送られたと言う。

その数、273級じゃったと・・・・・。

これが、長宗我部の一領具足達が徳川に抵抗した「浦戸一揆」ながです。

処刑された273人の遺体は、浦戸城の片隅に石丸塚として葬られ、後年、現在の場所に移されちょります。

一両具足供養の碑
一両具足供養の碑
南浦地蔵尊
南浦地蔵尊説明板
南浦地蔵尊

けんど、占領軍として土佐に入国した山内一豊のやった長宗我部の残党に対する殺戮(さつりく)は、これで終わりじゃなかった。

慶長6年(1601)1月、山内一豊が土佐に入国した時点でも、長宗我部の残党・一領具足達の抵抗が続いちょったき、困り果てた山内家は、一領具足らの抵抗を鎮圧するために山内一豊の入城祝いと称して桂浜で相撲大会を開き、見物に来ちょった残党約9000名余り(説)を殺戮し、浦戸一揆に関わった遺臣ら73名を捕らえ種崎の浜で処刑しちょります。

因みに、裏切りによって浦戸一揆を鎮圧した桑名弥次兵衛は、元は伊勢の桑名の人で応仁年間に土佐に来て長宗我部元親・盛親二代にわたって仕えた重臣じゃった。

長宗我部改易後は、藤堂高虎に召抱えられ家臣となるけんど大坂夏の陣・八尾の戦いで、運命か元の主君・長宗我部盛親と戦って、「主君と槍を交わすのに忍びず」と自ら敵中になだれ込み自殺したとも言う。

まあ、本当かも知れんけんど、美化して如何にでも後世には残せる話。

蜷川親長は、元は丹波国船井郡の蟠根寺城主じゃった父が永禄8年(1565)に松永久秀に討たれた後、土佐に下向して来て長宗我部元親に仕えた人で、浦戸一揆の功労によって慶長7年(1602)に徳川家康に山城国綴喜郡に500石を給されて旗本として取り立てられちょります。

どちらも、長宗我部家の裏切りもん。

いや土佐を裏切った・・・・。

その後も小規模な一揆も起こったけんど、一領具足達は山野に散り、やがて武士と言っても最下位層の郷士として召抱えられた者や、ある者は庄屋となり農民となって行った。

やがて、虐げられた彼らの積年の恨みがいっきに爆発した時代が、土佐の幕末じゃったとも言える・・・・・。

浦戸一揆 - Wikipedia




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1 Comments

 まちかどギャラリー  

お邪魔します!!

こんにちは、まちかどギャラリーです。

ギャラリーへのコメントありがとうございました。

そうなんです!! 「太鼓台」復活したんですよ!!

明るいところで見るのもよかったんですが、
夕闇の中、ぼんぼりを灯した姿も美しかったです!!

来年も、お祭りがあればいいのになあと切に願っております。

2011/09/27 (Tue) 10:08 | REPLY |   

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