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並川志摩 - 須崎で鰹のタタキ(塩辛の一種)を作ったと伝わる

並川志摩墓

[ 高知県高知市五台山 ]


並川志摩は、名を宗照と言い、元は肥後熊本城城主・加藤清正と忠広に仕えた重臣ながです。

加藤家は元は豊臣秀吉の子飼いの家臣じゃったけんど、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死去後、徳川家康に接近し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いじゃ九州に留まって九州の西軍勢力を破り、東軍・徳川家康に見方しちょります。

その功労で肥後南半を与えられ52万石の大名にまで上り詰め、加藤清正の死後、三男・忠広が跡を継いだけんど、寛永9年(1632)に加藤家は改易となるがです。

改易になった理由は諸説あるけんど、元々、豊臣氏恩顧の最有力大名だったため警戒されたとも言われちゅうとか・・・・・。

加藤清正 - Wikipedia


加藤家が改易になった時、並川志摩は浪人となり、寛永17年(1640)土佐藩第2代・山内忠義の代に津田平左衛門の取持ちで二千石の中老に召抱えられ、万治元年(1658)山内忠義の三男・安豊を養子に迎え三千石家老になっちょります。

万治3年(1660)江戸麻布の山内一安(土佐藩第2代・山内忠義の二男)が死去したため安豊が継ぐ事になり、代わりに土佐藩第2代・山内忠義の弟・佐川家老深尾重昌の三男・主税重康が、並川宗房と名を改めて養子となる。

しかし、並川志摩の死後、理由は不明じゃけんど宗房は蟄居させられ、並川家は断絶しちょります。


この並川志摩と言う人は、須崎で鰹のタタキを考案した人とされちょります。

ただ、今日のような鰹のタタキじゃのうて、鰹の身と骨を細切りにし、塩・麹・糟で漬け込んだ塩辛の一種じゃと言う。

土佐にゃ、鰹の内臓を原料とする「酒盗」と言う塩辛があるけんど、これの原型じゃないろーかと思うがですが・・・・・。

参考  『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!
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- 2 Comments

並川志摩 さんへ">

並川志摩 さんへ  

Re: ありがとうございました。

並川志摩 さんへ">

少しでも、お役に立てたのであれば、此方こそ嬉しく思います。
きっと御先祖の「並川志摩」さんも、喜んでいると思いますよ。

コメントありがとうございました。

2013/08/20 (Tue) 20:45 | 並川志摩 さんへさん">REPLY |   

並川志摩  

ありがとうございました。

 管理人さんとこのブログに感謝をしたいと思いましてコメントさせていただきます。私は並川志摩にゆかりの者です。
 数ヶ月前にこのページを拝見しまして、志摩のお墓が高知にあるとは思いませんでした。当方熊本在住ですが、初代志摩のお墓が残っております。今年のお盆に高知に行く機会がありまして五台山のお墓に両手を合わせてまいりました。
たくさんの史跡が高知には残ってますね。色々見たかったのですが、時間が足りず、次の機会にまた伺おうと思います。
ブログの更新楽しみにして拝見しております。ありがとうございました。

2013/08/20 (Tue) 15:52 | REPLY |   

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