久礼八幡宮の二つの歌碑 - 飛鳥居曽衣と鹿持雅澄

久礼八幡宮
久礼八幡宮久礼八幡宮

[ 高知県高岡郡中土佐町久礼 ]


久礼八幡宮の鳥居の両脇にある歌碑のお話を・・・。

向かって左の歌碑は、飛鳥居曽衣の歌。

「かきま久礼 うらみて帰る浜千鳥 真砂の数や 涙なるらん」

右の歌碑は、鹿持雅澄ながです。

「古や 汝も恋しき浜千鳥 久礼の浦廻を をちかえり鳴く」

飛鳥居曽衣と鹿持雅澄の両人とも、「久礼」を詠んだ歌と言う事で鳥居の両脇に置かれちゅうと思うけんど、実はそれだけではのうて、この二人は先祖と子孫の関係ながです。

飛鳥居曽衣

飛鳥井雅量(生没年不詳)は、藤原北家難波家の流れをくむ羽林家の一つで代々和歌、蹴鞠を家技にした。
雅量の祖父・雅康は正四位下左近衛少将権中納言。
大伯父の雅親は正二位権大納言で歌人書家として有名だった。
頼孝の子に生まれた。
雅量は1530年(享禄3年)9月に従五位下、同5年5月侍従となりその後従四位下少将に叙任された。
家伝の和歌、蹴鞠をよくおこなった。
のちに入道し曽衣と号した。

天文のころ京師の乱をさけ土佐に下り親族の一条家の賓客となって家門五家のひとりに。
1563年(永禄6年)津野定勝に鞠道八足の図を与え蹴鞠の秘儀を教えた。
一条氏滅亡後は岡豊城に招かれ元親やその子弟に鞠道を教えた。

飛鳥井雅量 - Wikipedia


長宗我部の家臣として外交面で支え、定かではないけんど、戸次川の戦いで長宗我部元親の嫡男・信親と共に討ち死にしたとか・・・・・。


鹿持雅澄は、その飛鳥井雅量の子孫になるとされちょります。

ただ、幕末の山内政権じゃ、郷士と言う階級の中でも上士扱いされちょった武市半平太と同じ白札じゃった。

鹿持雅澄は、幕末の土佐の若者たちに大きな影響を与えた国学者としても知られちゅうけんど、やはり血筋なのか万葉歌人としても知られちょります。


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