谷千城旧邸跡 - 硬骨の土佐人

谷千城旧邸跡
谷千城旧邸跡

[ 高知県高知市西久万 ]


現在、谷干城邸址は谷干城とは無縁の個人のお宅になっちょり、当時の建物は残っちゃーせんけんど東隣にある土蔵だけが、当時の面影を残しちゅう。

谷干城は、天保8年(1837)、儒学者・谷万七の第4子として土佐国高岡郡窪川に生まれちょります。

土佐学問の中興の祖と言われちょります、谷秦山の後裔になるがです。

父が、土佐藩に上士(小姓組格)として取り立てられてからじゃと思うけんど、幕末期に高知城下に移っちょります。

安政6年(1859)、江戸へ出て学問や剣術を学び、帰国後、藩校致道館で史学助教授となっちょります。

武市半平太が土佐勤皇党を血統すると尊王攘夷運動に傾倒し、佐幕派の多い土佐藩の中でも攘夷派の一人として、手助けしたり・・・・・。

慶応2年(1866)の長崎に渡った時、坂本龍馬と交わってから、龍馬を尊敬するようになったがです。

龍馬が近江屋で暗殺された時、真っ先に現場に駆けつけ中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬暗殺犯を追った事は有名な事実・・・・・。

犯人を新選組と決めつけ、戊辰戦争の際に流山で捕らえた新撰組局長・近藤勇の尋問にし、斬首・獄門という惨刑に処したのも谷干城じゃった。

彼にしたら、最も尊敬しちょった龍馬を暗殺されたがじゃき、仇討ちと言うか恨みを晴らしたがです。

慶応3年(1867)、薩土同盟を結んで討幕に傾き、慶応4年=明治元年(1868)の戊辰戦争では、土佐藩の大軍監として板垣退助総司令を助け東征しちょります。

明治2年(1869)土佐に戻って来て、この地に居を移し住処にしちょります。

明治3年(1870年)戊辰戦争の功労により、家禄を400石に加増され仕置役(参政)や少参事として藩政改革に尽力しちゅう。

明治4年(1871)の廃藩後、兵部権大丞として新政府に出仕し、明治5年(1872)には陸軍少将として熊本鎮台司令長官となる。

谷干城の名を有名にした出来事は、前述した龍馬暗殺犯追及の事もあるけんど、明治10年(1877)に起こった西南戦争の際、52日に渡って西郷軍1万5千余りを相手に熊本城にろう城し、城を死守し政府軍の勝利に貢献した事じゃろうねー。

城を守り抜き勝利した功績を称え、今でも、熊本城にゃ谷干城の銅像があるがやき・・・・・。

西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長となる。

「陽暉楼」跡を探して - 谷干城にも縁のある料亭 2010.05.31

明治14年(1881)、明治7年(1874)の牡丹社事件(征台の役・台湾事件とも呼ばれる)への軍事出兵の際、戦死・病死した将兵の遺体を一部の者が乱暴に取り扱った事実を政府・陸軍首脳部が放置しちょった事実を知って、抗議の辞任をする。

その後、学習院院長から政治家に転身しちょります。

明治18年(1885)第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するが、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判し、条約改正問題で辞任。

後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開し、国粋主義、農本主義的立場から、薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなしていたがです・・・・・。

明治44年(1911)、75歳でみてちょります。

意志が強く、自己信念を曲げない彼の生き様は硬骨の土佐人と言えるがです。

ほんまもんの、土佐の”いごっそう”の一人じゃった・・・・・。

参考・引用転記/谷干城 - Wikipedia




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