岡田登稔(啓吉) - 土佐勤王党には58番目に加盟・岡田以蔵の実弟



[ 高知県高知市薊野北町 ]


岡田登稔は、弘化元年(1844)郷士・岡田儀平宜之の2男として生まれちょります。

名を宜稔・登稔と言い、通称・慶次、のち啓吉と言うがです。

生まれた場所は、江ノ口村の七軒町・・・・・。

そう、実兄は6歳年上の岡田以蔵ながです。

岡田登稔は土佐勤皇党にゃ、58番目に加盟しちょります。

文久2年(1862)、江戸に上る山内容堂の身辺警護のために組織された五十人組に加わっちゅう。

文久3年9月(1863)、土佐勤王党に対する弾圧が始まり、京から「無宿人鉄蔵」として、土佐に送られてきた兄・以蔵が投獄され厳しい詮議を受けるなか、周りの同志たちが最も恐れたのは兄・以蔵の自白だと言う。

けんど、以蔵が投獄されちょった山田獄舎と、岡田登稔を始め親兄弟たちが住んじょった七軒町はは川を挟んで目と鼻の先。

いろんな意味で、さぞかし心底心を痛めちょったろーねー・・・・・。

その後、岡田登稔が家督を継ぎ、明治7年2月(1874)に起こった明治政府に対する士族反乱の一つ佐賀の役(佐賀の乱)の首謀者の一人・江藤新平が、片岡健吉と林有造に挙兵を訴えるために土佐に逃れて来た時、小船に乗せて土佐の東の方に逃がす手助けをしたとか・・・・・。

しかし、その江藤新平も東洋町甲浦で捕縛されちょります。

病死じゃったがやろーか、明治15年(1882)、岡田登稔は38歳の若さで亡くなっちょります。

墓は、岡田以蔵の直ぐ左隣に眠っちょりますが、多くの参拝者は以蔵の墓だけが目当てのようで、殆ど無関心に立ち去るばかりなのが残念・・・。

幕末の動乱期に尊皇攘夷の名の下、国のためにと奔走した維新の志士の一人にゃ変わりはないがですき・・・・。

ちょっくら、足を止めて手だけでも合わせてやってや。


[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事! 
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