中島信行 - 坂本龍馬最後の帰国の際にゃ同行



[ 高知県土佐市塚地 ]


中島信行は、弘化3年(1846) 高岡郡塚地村(現・土佐市)に郷士・中島猪之助の長男として生まれ、名を作太郎と言い、後に信行と名乗っちょります。

土佐勤王党にも加盟しちょりますが、どういてか血盟名簿にゃ名は残ちゃーしません。

元治元年(1864)、従兄弟の中島与一郎、新居村の庄屋の子・細木元太郎と共に脱藩するがですが、従兄弟の与一郎は途中、国境の水の峠で足を痛めてしまい捕吏に囲まれ自刃するがですが、作太郎らは、なんとか捕吏から逃れて長州へ渡り、長府で三条実美ら七公卿の守衛役に付いちゅう。

その後、長崎に渡り坂本龍馬の亀山社中に入り、海援隊に移っても庶務を担当しちょります。

同じ海援隊の陸奥陽之助(宗光)とは始終公使に渡る付き合いじゃったようで、作太郎の最初の妻は、陸奥陽之助の妹だったと言う。

慶応3年(1867)に起こった「いろは丸事件」の時にゃ、坂本龍馬の意を受け紀州藩との再折衝に当たったり、同年9月14日に坂本龍馬最後の帰国になった、ライフル千丁を積んで芸州藩の震天丸で土佐にへ戻んて(もんて)来た時も、一緒に同行しちょります。

11月15日京・近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された時にゃ、直ぐに入京して京都に於ける海援隊本部じゃった酢屋へ入り復讐の密議に参加しちょりますが、その後は、田中光顕が副長を務める陸援隊へ席を置き、高野山旗揚げに加わっちょります。

また、明治元年(1868)3月にゃ、坂本龍馬が長府の三吉慎蔵の元に預けちょった「お龍」を、土佐の坂本家へも送り届てもらうようにと、三吉慎蔵に託しちょります。

明治維新後、名を信行と改称して新政府に出仕し、外国官権判事と兵庫県知事を兼ね、翌年、陸奥宗光(陽之助)・伊藤博文らと廃藩置県を政府に建議したり、通商正・出納正・大蔵省租税権頭等を歴任しちょります。

その後、2年間欧米各国を巡遊し、帰国後は神奈川県令を勤め、元老院議官となり、憲法草案の起草にも当たっちゅう。

明治13年(1880)辞職後、板垣退助らの自由民権運動に加わり、自由党が結成されると副総裁となり、その後、日本立憲政党総裁も兼ねちょります。

明治23年(1890)第一回衆議院議員選挙に当選すると、初代・衆議院議長を務め、貴族院勅選議員となりますが、明治32年、病により死去しちょります。

享年54歳。

参考・引用/『高知県人名事典』 高知新聞社




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