藤田栄馬 - 坂本龍馬の竹馬の友



[ 高知県高知市小高坂 ]


墓碑にゃ、無味庵夏一墓・通稱濱田束稲と刻まれ、台座は臼を逆さにしちょります。

藤田栄馬は、天保6年(1835)藤田利三右衛門の長男として生まれ、別名・弥平太と言う。

濱田束稲は、明治になって名乗った名じゃそうです。

栄馬の祖父が、上士に殺害され父・利三右衛門は母方の実家で育てられたそうで、藤田姓を名乗るがですが、文久3年(1863)に濱田姓に改姓したがじゃそうです。

父・利三右衛門は、坂本龍馬の父・八平とは友人じゃったそうですき、龍馬と英馬も幼い時より竹馬の友と言うやつで、オンシ(お前)がオラ(俺)がと言う間柄で、日根野道場にも一緒に通いよったそうながです。

文久2年(1862)、龍馬が脱藩(出奔)したとされる際も、一緒に「行かんかよ」と誘ったそうじゃけんど、英馬の父に知られ実行できんかったそうです。

龍馬は、その事を知ると、「後の事は頼む」と言い残して、脱藩(出奔)して行ったと・・・・・。

数日後、栄馬のもとに坂本龍馬の兄・権平がやって来て、「栄馬、オンシの家に刀を持って来ちゃーせんかねゃ」と尋ねられ、「来ちょりゃせん」と言うと、「如何やら龍馬が脱藩(出奔)したようで、龍馬らしき姿を須崎で見た・・・・」と言うたがやと。

この時の刀が、後々尾ひれが付いて、栄ねーさんが龍馬に渡して自害したという話の元ながですねー。

明治維新後は高知県官史となるが直ぐに退官し、親類の川崎幾三郎の下で実業家として活躍しちゅう。

因みに川崎家は、土佐の豪商の家で、土佐銀行(現・四国銀行)、土佐電気鉄道(土佐電鉄)の創立にも寄与し、私財を投じて幼稚園や、私立・土佐中学校(現・土佐中学校・高等学校)を創設したりと多くの事業を展開しちょります。

また、土電を走らすために、大川筋(高知城北側の江ノ口川沿い)に火力発電所も造っちゅう。

話は逸れたけんど、可なりの風流人じゃったようで、茶道・陶芸・謡曲・仕舞・狂言・俳句・短歌なども嗜なんじょったそうで、俳号が夏一。

茶道は、不白流で無味庵と称したそうです。

不白流とは、流祖・川上不白以来、8世にわたり250年の歴史をもつ流派で、その伝統を現在に伝えちょります。

つまり、墓碑の「無味庵夏一」とは、茶道の名と俳号を重ねた名前ながですねー。

明治42年、75歳で、みてちょります。

『高知県人名事典』 高知新聞社
『坂本龍馬・青春時代』 小美濃清明・著 新人物往来社




[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事! 
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