伊藤甲之助 - 土佐勤王党に68番目に加盟




[ 高知県高知市薊野 ]


伊藤甲之助は、天保15年(1844)に高知城下浦戸町 (現・はりまや町)に伊藤源平の長男に生まれ、名は和義と言う。

伊藤家は元・豪商伊東屋で、父の代に郷士となっちょります。

土佐勤王党にゃ68番目に加盟しちょります。

文久2年(1862)6月、藩主・山内豊範に随行して武市半平太らと一緒に京に上り、10月の勅使東下の際にゃ護衛とし江戸に出ちょります。

帰京後にゃ、姉小路公知の護衛に付くが、姉小路公知の死後は三条実美の護衛に付いちょります。

文久3年(1863)8月18日に起こった政変で、世に言う「七卿落ち」の際にも、随行して長州へと下る。

土佐じゃ、土佐勤王党に対する弾圧が始まると、そのまま土佐にゃ戻らず脱藩の身となっちょります。

元治元年(1864)7月禁門の変にゃ、忠勇隊として参戦したがですが7月19日、堺町御門の戦いで重症を負い、撤退途中に大利鼎吉の介錯の下、自刀。

享年20歳。

辞世の句じゃろーか、墓碑にゃ次のように彫られちょります。

「梓弓 引くも手弱き 身なれ共 思ひいる矢は 豈(あに)劣らめや」 

『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事! 
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