雨森舌戒 - 土佐勤王党の尊皇攘夷に賛同し佐幕派を弾劾



[ 高知県高知市奥福井 ]


雨森舌戒(あめのもり ぜっかい)と言う人は、武市瑞山が土佐勤王党を結党すると尊皇攘夷と言う勤王精神に賛同し、園村新作や武藤小藤太らと藩内の有力な佐幕派を弾劾して行った人ながです。

一時期にしろ、藩内で土佐勤王党が活躍出来たのも、この雨森舌戒たちの御蔭とも言えよう。

勝手な想像じゃけんど、以前に御紹介した土佐南学と言う学問が、幕末の土佐藩じゃ教学の中心になっちょった訳で、彼らの精神面に活き付いちょったがじゃないろーか・・・・・。

雨森舌戒は、文化11年(1814)土佐藩上士馬廻り格・雨森氏久の子として生まれ、名を氏生、通称は九馬・源右衛門と言う。

口論不撓(自分の意見を述べるに対しては、どのような困難にあっても屈しないこと)の性格の人物やったようで、奉行職や仕置役だけでなく藩主に対しても、上書・建書(目上に対して進言する意見書のようなものでしょうか・・・)が限りなかったようながです。

重職に就いても仕事が嫌じゃと言う訳じゃのうて、長く一つの席に居座り続ける事を良しとせず、自ら職を辞したり・・・。

ペリー艦隊の黒船襲来と騒がれた時は、家禄を返上して国難に備えるようにも請願しちょります。

ただ、この件は不採用になったようじゃけんど・・・。、

また、自腹で大金を叩いてヘキサンス砲と言う大砲を鋳造したりと・・・・。

まぁー、上士じゃけんど、こう言う一本筋の通った人の事を、「土佐のいごっそう」と言うがやろーねー。

政変後、土佐勤王党に対する弾圧が始まって佐幕派が息を吹き返し反論が転換すると、雨森舌戒も数度となく揚がり屋に入り、その都度追放が繰り返されたと言う。

揚がり屋とは、五百石以下御目見以上の旗本の未決囚を収容していた幕府の牢屋の事で、土佐の場合も同じじゃと思うけんど、上士格の未決囚を収容しちょったがでしょう。

最後にゃ、罪を許された事から名を「舌戒」と改めて、口をつぐんだそうです。

「もう、何も言わん・・・・・」と言う事ですねー。

明治7年、61歳で亡くなっちょります。

『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!  
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