村田忠三郎顕彰碑 - 土佐勤王党に47番目に加盟





[ 高知県香南市吉川町古川 ]


村田忠三郎は、天保11年(1840)に香我美郡古川村の郷士・村田新十郎の次男として生まれ、名を克復、後に克昌と言う。

武市瑞山に剣を学び、江戸に出て坂本龍馬と同じ北進一刀流の千葉定吉・重太郎に習っちょります。

文久元年(1861)、土佐勤王党にゃ47番目に加盟しちょります。

また忠三郎の兄・村田右馬太郎も97番目に加盟しちょります。

文久2年(1862)2月、間崎哲馬(滄浪)と江戸に出て情報収集等に当たり、土佐に帰途の途中の8月2日の夜、土佐藩参政・吉田東洋暗殺犯の探索に当っちょった井上佐一郎を、岡田以蔵らと殺害しちょります。

同年10月、五十人組に加わり、江戸に出て山内容堂の警護に付いちょります。

けんど、文久3年(1863)八月十八日の政変(堺町御門の変)で土佐勤王党に対する弾圧が始まり、激しい拷問に耐え切れなかった岡田以蔵の自白で、元治元年(1864)8月、藩吏・井上佐一郎殺害事件の容疑で、村田忠三郎・岡本次郎・久松喜代馬・森田金三郎らと共に、山田橋獄舎に投獄されるがです。

そいて村田忠三郎自信も、厳しい拷問を受けたがやろー、井上佐一郎殺害を自白し、慶応元年閏5月10日(1865)の夜、井上佐一郎殺害の罪により、打ち首となったがです。

享年26。

『高知県人名事典』 高知新聞社


土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の吉川駅の東側に、こじゃんと大きい碑が建っちょります。

碑には、古川一同建とあり、地元のひとらーによって、昭和11年に建てられちょります。

碑の裏面にゃ細かい文字がいっぱい刻まれちょりますが、生憎周囲の木々の葉に覆われ、全文は確認出来んかったけんど、碑文の撰文は寺石政路、書は松村丑太郎と刻まれちょります。

寺石正路墓 - 土佐の歴史・地理・考古・民俗学の第一人者 2011.06.13


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