山内容堂・西郷南州会見の地 - 四侯会議に向けて




[ 高知県高知市鷹匠町・ホテル三翠園庭内 ]


此処は、はりまや橋のレプリカの記事でご紹介した場所と同じ、ホテル三翠園の庭内ながです。

はりまや橋のレプリカ - 明治41年から昭和4年まで架橋されちょった 2011.06

今でこそホテル三翠園さんの敷地にあるがですが、そもそも此処は山内容堂の別邸・散田屋敷があったがですが、戦後売却されて、その大部分がホテル三翠園となっちゅうがです。

と、前置きはこれ位にして本題を・・・・・。

邸内にある案内板の高札にゃ、次のようにある。

慶応3年(1867)2月17日薩摩島津(島津久光)公の命に依り(より)西郷隆盛来藩す
山内容堂は当邸内物見座敷此君亭(しくんてい)に土佐藩士福岡孝弟を従え西郷隆盛及吉井友実を引見し共に時局の重大性を語り西郷隆は頻(しきり)に山内容堂公に上洛を促した(うながした)結果ここに肝胆相照し(かんたんあいてらし)遂に明治維新回天の基礎を確立した由緒深き邸跡である

土佐史談会長・松山秀美述



この会談が行われた裏にゃ、坂本龍馬や中岡慎太郎が働きかけた慶応2年(1866)の薩長同盟からにつながる。

薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに幕府主導の政権を弱体化しようとしちょった。

そこで、西郷隆盛が島津久光に上京を促し賛同を得ると、久光の命で列侯会議に参加を促すため、宇和島藩主・伊達宗城と土佐の山内容堂に会うがです。

その一方、京に居った小松帯刀が越前藩主・松平春嶽を説得しちょります。

慶応3年(1867)4月12日、島津久光は藩兵を引き連れて京に入るがです。

そんで5月4日京都・越前藩邸で開かれた会議が、有名な四侯会議ながです。

下が、その会議の日程

5月4日 越前藩邸で会談
5月6日 二条斉敬(摂政)邸で摂政と対談
5月10日 二条邸で摂政と対談(容堂は欠席
5月12日 土佐藩邸で会談。二条城登営を議す。
5月14日 二条城で徳川慶喜と対談。記念撮影。
5月17日 土佐藩邸で会談
5月19日 二条城で慶喜と対談(容堂は欠席
5月21日 二条城で慶喜と対談(容堂は欠席

[ 参考・引用 ] : 四侯会議 - Wikipedia:


議題は長州問題と兵庫開港問題などじゃったそうじゃけんど、 5月14日二条城で徳川慶喜と対談した時にゃ、島津久光は長州即時懲罰を主張したけんど、徳川慶喜は横浜鎖港を主張するという全く逆の展開じゃったそうながです。

結局、四侯会議が失敗に終わって、5月23日の朝議に臨んだ際、四侯会議のメンバーで列席したがは松平春嶽と伊達宗城だけじゃった。

そこにゃ、薩摩藩の島津久光と土佐藩の山内容堂の姿はなかったと・・・・・。

始めに、言い出したがは薩摩の筈じゃに、自分らの思惑通りに行かんかったき、さっさと帰って行った・・・・・。

土佐もじゃけんど、土佐の事情は後で述べる。


この四侯会議が不発に終わり、幕府の権威を削ぎ落とすことが適わなかった薩摩は武力倒幕へと大きく傾いて行き、岩倉具視と手を組み倒幕の密勅降命を工作する事になるがです。

結果的にゃ、今日の人が考えても、如何しても戦国時代の雪辱を晴らしたかったと言う事と、幕府に変わって自分達が権力を握りたかったき、と見られても致し方ないような、薩長連合主体の討幕の道へと進んで行くがです。


よう四侯会議が失敗に及んだがは、日程を見ても判るように、山内容堂が会議をドタキャンしたきと言われるけんど、容堂にも容堂の言い分があるがぜ・・・・・。

それは、四侯会議が始まって、最初から薩摩が幕府権力を削ぎ落とそうと図り、主導権を握ろうとしたがが嫌じゃったとか・・・・・。

まだ、当時の土佐は佐幕ですき、行き成りは許せんかったがじゃろーねー。

それに薩摩の態度が・・・・・。

此れ以来、山内容堂は薩摩から距離を置くようになり、幕末まで幕府を擁護する姿勢を貫いた。

坂本龍馬が夢見た大政奉還が、山内容堂の手により成ったのも、一つには「幕府を擁護」しての苦肉の策じゃったがでしょうー・・・・・。


ホテル三翠園さんの庭内にゃ、無料で入れます。

ホテルの車寄せの所に居る駐車係りの人に声を掛けたら、場所を教えてくれますき・・・・・。


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