谷垣守・真潮邸跡 - 谷家の学問が尊王思想を説く



[ 高知県高知市桜馬場 ]


谷垣守・真潮邸跡を・・・・・。

石碑のある場所は江ノ口川沿いの通りに面した場所にあるけんど、家と家の互いの壁に挟まれた奥まった場所にあるもんで、パッと見では判らんがです。

周囲にも何の標識もないき、ここも殆ど誰も気が付かんと通りすぎちょるがじゃないろーか。

残念なことよねー・・・・

谷垣守の長男が真潮で、また、土佐南学を復興した谷秦山は、谷垣守の父になるがです。

南学発祥の地 2009.10.10でも書いちゅうけんど、土佐南学は谷時中から、弟子の野中兼山や山崎闇斎らに受け継がれる。

因みに、谷時中は谷秦山と同じ谷姓じゃけんど、同族じゃないがです。

谷時中の墓 - 「土佐南学」中興の祖 2009.10.11

けんど、野中兼山が失脚すると門人たちも居らんようになって、一時は途絶えるけんど、谷秦山によって息を吹き返したがです。

谷垣守は、元禄11年(1698)谷丹三郎重遠(号・秦山)の長男として生まれ、通称は丹四郎、号は塊斎、幼い時から家学を受けその業を継いだ儒者・国学者ながです。

父・秦山の没後、京都で玉木葦斎に神道を、江戸で賀茂真淵に国学を学び、谷門の学として転換させていく。

学才が土佐藩庁にも認められ、家格も留守居組を経て御扈従格禄米20石となる。

高知北会所(藩校教授館の前身)の講師をつとめ、宝暦2年(1752)55歳で亡くなっちょります。

その子谷真潮は享保14年(1729)に谷垣守の長男として生まれ、通称・丹内、号・北渓と言う、儒学者・国学者・政治家。

家学を学び、後、賀茂真淵に国学を学ぶ。

宮地仲枝や今村楽らを育て、国学や和歌が流行って行った。

父・谷垣守の目からしたら、家学の神道よりも和歌に夢中だと思ったのか如何かは良くは判らんけんど、「我家悪魔を生ず」と嘆かせたと言う。

しかし、谷家の学問が土佐藩の教学の中心に成り得たのは、真潮の力による。

宝暦10年(1760)、藩校・教授館教授となり、後、浦奉行となる。

土佐の海岸地方の民族・政情を視察し「東西廻浦日記」を残したが、単なる学者に留まらなかったと言う。

また、天明2年(1782)から天明8年(1788)にかけて発生した天明の大飢饉の際にゃ、藩内の改革にあたるため藩主・山内豊雍の英断により谷真潮も抜擢され、郡奉行・普請奉行を経て大目付の重職に付き、改革政治を断行した。

晩年は、政治から退き、教授役に専念し、寛政9年(1797)71歳で満てちょります。

[ 参考・引用 ] : 「高知県人名事典」 高知新聞社


幕末の土佐に如何いて、あんなにも多くの若者達が、国を憂い土佐を飛び出して行ったか、それは、彼らの学んだ国学が谷家の学問じゃった。

土佐南学ちゅう学問は、朱子学の一種で、朱子学と国学をあわせた尊王思想にも通じる学問ながです。

武市半平太らー多くの若者は、半平太の叔父・鹿持雅澄に学び、その鹿持雅澄も、谷真潮の門人・宮地仲枝から谷家の学問を学んだ人じゃったがです。

戦国時代に始まった土佐南学が、谷家の学問となり土佐藩の教学ともなったけんど、皮肉にも上士だけの学問じゃのうて郷士や庄屋層にまで尊皇思想を広く浸透させ、幕末の土佐を尊皇攘夷の名の元に、明治維新へと続く原動力へと導いて行った学問と言っても過言じゃないがですねー。


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