取り壊された植木枝盛邸は、元は谷干城邸じゃったと・・・・・



写真は、今年、破壊されて地上より姿を消してしまった文化遺跡・植木枝盛邸跡の、在りし日の姿ながです。
撮影 : 2009.11.18

[ 高知県高知市桜馬場 ]


あえて、今回、再掲載するかと言うと、数日前、大変不愉快な情報が流れたからながです。

発端は、高知に関するメーリングリストからじゃったき、この話を知っちゅうがは、ホンの一握りのメンバーだけ。

秘匿でも何でもない普通のメーリングリストで、高知県に興味のある御仁じゃったら、県人だろうが他県民だろうが、誰でも参加は自由ながよ。

そう言った仲間達に発信されたメールの文章じゃと言う事を事前に述べて置くと共に、念のため発信者名は伏せておきます。

仔細は以下の通り。

[XXXXXX:18988] 植木枝盛邸は谷干城から買ったもの?
Fri, 24 Jun 2011 15:40:51 +0900

・・・・・ところで、先日、へ!?と思う話を耳にしました。
今、解体が進められている植木枝盛邸、実は谷干城の家だったらしい…という事。
・・・・・ご存知の方フォローをお願いします。
・・・・・もし、本当にこの2人が関係した家だとしたら、本当に壊すのはもったいない。
妙なもんを街中に作ってお金を使うよりも、もうちっと、壊し始める前に、ちゃんと調べて、本物を生かす事を考えたほうがエイにねー
と等と、雑談した事でした。
まっこと、この話がほんまやったら、もったいないですね。・・・・・


ごもっとも・・・・・正論じゃ。!!

それに対する、アンサーが下記のように流れたがを見て、腹立たしさを感じたがよ。

[XXXXXX:18989] Re: 植木枝盛邸は谷干城から買ったもの?
Fri, 24 Jun 2011 19:44:48 +0900

・・・・・それと植木枝盛邸は谷干城から買ったものと言う件で 土佐史談会副会長のT(実名を伏せます)さんに聞いたがですが解体した時襖の中から谷干城一族の家を買うので見に行くと言う手紙が見つかったとのことです・・・・・

近く自由民権会館にそれも展示するらしいです・・・・・


他にも、ネットをぐぐったら、下記のような記載もあった。


2011年01月23日 枝盛邸 [ピンク]が証明されました


築120年以上経つ、この枝盛邸は、その後は別人の所有となり、たびたび増築されましたが、8畳の書斎は、壁が塗り替えられたほかは、当時のままだと言われています。

移築にあたり、ふすまの下張をはがしたところ、枝盛の父、弁七の書状が出てきたそうです。


この日付の時点では、庭木の伐採等はしよったけんど、まだ本格的に解体はされちゃーせん時期じゃったき、解体を中断する事が出来たろーに・・・・・?

谷干城は、土佐藩の上士でありながら、坂本龍馬を厚く尊敬しちょった事でもしられちゅう。

龍馬と慎太郎が暗殺された件に関しては、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったと言う、龍馬ファンにもお馴染みにの人物。

その、谷干城一族の家を買うので見に行くと言う手紙が見つかったと言う事は、事前にちゃんと調べもせず、壊いてしまって、「実はこんな手紙が出てきた・・・・・。谷干城邸じゃった・・・・・。しもうた・・・・」言うても、遅いろー・・・・・。

可能性がある以上は、まずは調査することから始めるがが、先決じゃないかよ。

高知新聞 2011年05月10日17時51分にゃ、こんな記事があった。

植木枝盛旧邸ふすまの調査始まる

高知市桜馬場の植木枝盛旧邸で使われていたふすまの下張りの解体調査が10日、始まった。

土佐山内家宝物資料館などが約1年をかけて整理・保存する。


もう既に、重要物件が出て来ちゅうに関わらず、黙して語らずかよ。

どうせ、重要な建築物じゃったと言う事を有耶無耶にするために、時間をかけてホトボリの覚めた頃、自由民権記念館に展示し、「実は、こうこうでした」と事後報告をするが・・・・・。

保存の経緯をネットで調べ寄ったら、こんながが出てきた。

植木邸についての高知市対応
投稿者:〇〇 〇 投稿日:2003年11月17日(月)00時44分20秒

先日、高知市のホームページに行って そこから市長に宛て「植木枝盛邸の取り壊しに反対です」といった意見書を出しておいたら 高知市の助役様から返事が届きましたので、ご報告しておきます。

高知市の意見は以下のようなものです。

1.高知市では平成2年度に「市立自由民権資料館」を作成し研究・掲示活動を行っています。
2.植木枝盛氏の「東洋大日本国国憲案」は当時作られた草案の中で優れたものであった事は理解している。
3.旧邸は、「植木枝盛氏が居住していた事、及び憲法草案を書いた部屋が残っていることに意義がある」と考えている。
4.旧植木枝盛邸は、昭和15年に現在の所有者が相続し、既に4回も改築されているので、文化財的価値を認めていない人がいる
5.従って、公的に保存することは困難である。


何ともねー・・・・・。

読売新聞 2010年9月3日15時03分の記事より。

植木枝盛旧邸取り壊しへ…財政難で保存できず

その記事より、抜粋。

保存を求めてきた市民らは「当初の場所になければ意味がない」と落胆している。


まっこと、その通り。

植木旧邸保存運動は、実は1980年代から始まっちょった。

「土佐の歴史散歩」植木枝盛旧邸の記事より、抜粋引用

2003.9.26高知市議会9月定例会の中の質問に高知市長が答えました
 枝盛邸は枝盛が居住し、憲法草案を書いたとされる部屋が残っていることに意義があるが、昭和十五年以降4回もの増改築を重ねているため文化財としての価値に疑問があり、市が保存することは困難である。

2003.12.10旧邸を保存する会のメンバーらが高知市の新市長である岡崎誠也市長を訪ね、2,340人分の署名を提出して建物の保存を重ねて要望したが、市長は財政再建を公約として当選したので現地保存は財政を考えるとできないと答える一方、書斎については教育委員会や議会など内外の意見を聞いた上で判断したいと答えた。


また

のぶかつさんの「よさこい高知歴史木漏れ日」 2010.10.16 (92)遂に消える植木枝盛旧邸より抜粋引用

この30年来、旧邸保存運動にかかわってきた土佐史談会理事の公文豪さんは「現地保存ができないのは残念だが、現状ではやむを得ない」と言っており(9月3日、高知新聞)、高知市議会でも高知新聞の議会報道を見る限り格別の質疑や意見表明はなかったようで、上の写真の家は来年中ごろまでにはなくなりましょう。・・・・・


幾等なんでも、高知市議会は、最後の最後のやり取りにおいても、意義を唱えるもんが誰一人居らん?????。

市民の全員が保存に反対したがじゃないき、1人ぐらいは最後まで保存の民意を訴えるもんが居らんがかよ・・・・・フーン!怒怒怒 (`´)怒怒怒

板垣退助・丸岡莞爾(吉村三太)・浜口雄幸のような、一本筋の通ったホンマもんの土佐人は居らんねー・・・・・(`‐ε‐´)シラー

土佐の文化財の保存の有り様は、いっつも無くしてしまって、その重要性を気付く事が多いけんど、今回も正に、そのケース。


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6 Comments

芋上  

ご丁寧にありがとうございます。

本当にご丁寧な解説、見解を頂きましてありがとうございます。
吾川山荘、南北朝の争いの相関の歴史につきまして詳しくお教え頂きましてありがとうございます。
本家にはいくらかの資料は残っているのですが、私の5代祖が書き残した由緒書きのような物によりますと、私の祖先は戦国時代の始まりには本山氏によって落城し、神職となりましたが、戦国時代の末期には長宗我部氏と共に一族から戸次川の合戦に参戦している者ありとされておりました。
長宗我部氏と共に戦った土豪の衆であるにも関わらず、一族の中に土佐藩に上士として召し抱えられた者が居たとの記述があったり少し本当か?と思うような事があるのですが。。

この記事に辿り着いたのは、祖先の家に植木枝盛さんが下宿したことがあるという言い伝えがあって、歴史上の人物の中でもとても親近感がある植木枝盛さんの事を調べていた際に辿りついた事がきっかけでした。
本当に祖先の家に下宿したことがあるのか真偽を知りたいのが心中ですし、植木さんの痕跡が消えてしまうのは本当に惜しいです。
5代祖も恐らく先祖より言い伝えられた事、家に伝わる資料などをまとめたのだと思われますが、何十代も祖先を遡り大祖は藤原だとの記述があり、江戸時代までは我が家も藤原をアザナとして名乗っていたようですので土佐の土豪衆、豪士衆の中にも色々な士族が居たのだろうと想像しています。
土佐の皆様はお参りに行く際はいつも快く迎え入れて下さいますし、食べ物、酒も美味ながら、見る景色は山に川!本当に素晴らしい国です。
山に登り、海や川を眺めると心の広い人が多い理由がわかります。

このブログを、読んで

幼い頃、佐一郎叔父さんと祖父とが酒と肴をつまみながら、足踏みをしながら、
とさーのこうちーのー

と故郷に想いを馳せて居たのだろうと想像がつきます。

たまに遊びに来させて頂きますね!
本当にありがとうございます!

2014/09/08 (Mon) 01:33 | REPLY |   
芋上様 へ">

芋上様 へ  

Re: 面白い記事が一杯です!

芋上様 へ">

ビックリしました。
「宮地佐一郎」先生の御縁者ですか。
コメントをいただきまして、本当に、ありがとうございます。

下記は、既に御調べになられて御存じの事かも知れないとは存じます。
当方、然程の知識はありませんので間違っているかもしれません事を前提に、私なりに御返答をさせていただきます。

吾川山荘の荘園領主は、九条家→二条家→皇室領と移り代わり、公領でした。
しかし鎌倉幕府が滅亡し、「南北朝の戦い」の戦火が飛び火して各地に戦乱が相次ぐと、それまでの寺社や皇室等の荘園の所有形態が崩壊し、それぞれの荘園が他勢力との争いから身を守るため村落単位で武装防衛して行ったのが、それぞれの土地の豪族たちです。
やがて「南北朝の戦い」も終わり室町幕府が開かれると、幕府は各地の戦乱を抑えるのと、幕府の統制を図るために置いたのが守護職でした。

表向き細川氏は土佐守護代を世襲していますが、細川勝益(~1502)が守護代を務めた頃、都で「応仁の乱」が勃発すると細川勝元は東軍の大将を務め加勢に上洛します。
しかし、約10年にも及ぶ不在がもたらしたのは、土佐での細川氏の支配力の弱体でした。
そのため、その間に土佐のあちこちでは在地の豪族たちが、互いに支配争いを始めていました。
細川氏は何とかして土佐守護代の権力を取り戻そうとしますが細川勝益が死去すると、跡を継いだ細川政益は永正4年(1507)に京兆家当主の細川政元(勝元の子)が暗殺されると土佐を去り上京したため、土佐は守護代不在の地となってしまいます。
そして細川氏の代わりになったのが「応仁の乱」で都から逃れて来た一条氏で、土佐下向後も土佐国司として「土佐の七雄」と呼ばれる本山氏や長宗我部氏らの盟主的存在にまつりあげられますが、もはや土佐は誰かに従い束ねられるような状態ではなく、本格的な戦国時代に突入していきます。

御貴殿の始祖が賀田城に所縁があるとの事ですが、賀田城の築城時期は詳しくは判りませんが弘治2年(1556)の本山茂辰所領宛行状によると、田上善衛門が城番を命ぜられていますので、この頃までは神ノ谷村や加田村を含めた吾川山荘と思われる一帯は、この頃には本山氏の所領になっていたようです。
その後、本山氏が長宗我部元親軍に敗れた後は、天正17年の『下分七名地検帳』では、長宗我部元親の弟・吉良親貞の子・吉良親実の所領地になっています。

紙の件ですが、平安時代の末期頃には製紙も国府から荘園へ移って造られるようになっています。
約800年前の鎌倉幕府の検地には、「杉原紙」と呼ばれる奉書のような高度な製紙技術による上質の紙が造られていたと言う記録があるそうですので、御考察のように「良質な土佐和紙」そのものが年貢のような利権の一つだったんでしょうねー。

2014/09/02 (Tue) 18:53 | 芋上様 へさん">REPLY |   

芋上  

面白い記事が一杯です!

はじめまして!
いきなりのコメント失礼致します!
私の祖父までは先祖代々土佐産まれのとさっぽばかりですが、私の祖父から東京に移住しましたが、土佐の伊野、神谷に所縁がある物です。
私の祖先について暇があると調べていましたところ、このブログに辿り着きました。
所縁の地であり、先祖代々の墓がある土佐には数年に一度お参りに行きますが、あくまでも観光客。土佐の歴史についてはほんの一握りしか知りません。
土佐には古代からの様々な遺跡や寺社があるにも関わらず、1週間程度のお参りでは思うように回りきれない現実にヤキモキしながらネットを彷徨っていましたが、このブログを読んで色々な考察を目にする事で新しい知識、見解が開けました!
ありがとうございます!本当にありがとうございます。
私の始祖は賀田城にゆかりがあるらしいのですが、私の調べでは現在のいの町の辺りは吾川山荘と呼ばれる荘園であったようですが、どのような勢力が当時そこに存在したのでしょうか?多くの山城が存在したようですが、山城の存在意義とはなんだったのでしょうか?
古代より楮が採れる地域で、神様に祀る為、朝廷に収める調として、紙の存在が利権としてこの地に存在したのでは無いか?と妄想を繰り広げているのですが、その調を収める先の相手は当時の守護細川氏だったのでしょうか?はたまた、一条氏だったのでしょうか?
ネットで南路志を購入するか迷っています!なにぶん高価な物なので手が出辛いですが。。。
いきなりの長文、質問失礼致しました。
とても楽しくブログを読ませて頂きまして!頭の中で沢山歴史旅が繰り広げられました^o^
本当にありがとうございます!

因みに自慢の大叔父は龍馬研究の一人者、宮地佐一郎です。

2014/09/01 (Mon) 22:18 | REPLY |   
オンチャン(とさっぽ)">

オンチャン(とさっぽ)  

Re: おりがみ さんへ

オンチャン(とさっぽ)">

ゲーッ!この世界はパラレル・ワールドやったんやー(笑)

2011/06/29 (Wed) 09:00 | オンチャン(とさっぽ)さん">REPLY |   

おりがみ  

憲法草案・・

そのうち自由民権会館そのものが消えてなくなったりして。

歴史の修正力?まさかねー・・・。とも。

2011/06/29 (Wed) 00:13 | EDIT | REPLY |   
オンチャン(とさっぽ)">

オンチャン(とさっぽ)  

Re: Nさんへ

オンチャン(とさっぽ)">

> 私達が発信できない事を 良くぞ書いて下さいました・・・ありがとうございました。

命を狙われるかも知れんねー。・・・・・ヒヤー!! (>_<)

何日か、更新が途絶えたら、その時にゃ、仇討ちを頼むぜよ・・・・・!(^^)!

> ついに「仁」が終わりましたネ・・・海の中から龍馬が発する言葉は・・・いつまでも残ります~

オンチャンも、年のせいじゃけんど、チックと眼から涙がと思うろー。、

違う、涎が一筋垂れてきたがよ。

あー、ババッチイ!!・・・・・(^^ゞ

けんど、龍馬の言葉、エエ言葉やったねー。

「わしらはいつでも、先生とともにおるぜよ。」

ちょっと大げさかも知れんけんど、歴史写真家・前田先生や土佐人たちへの、熱いメッセージのように聞こえました。

もしかしたら、これが前田先生の著書「龍馬からのメッセージ」に対する、天国の龍馬さんが、時空を越えてドラマの龍馬に語らせた、返答のようにも聞こえたがでした・・・・・。

2011/06/27 (Mon) 23:40 | オンチャン(とさっぽ)さん">REPLY |   

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