剱尾神社 - 創建は500年以上も古く祭神はスサノウ(説)



[ 高知県南国市浜改田・剣尾山 ]





此処は、南国市里改田の琴平神社の峰続きの西側の山の上にある、剣尾神社。

琴平神社 - 684年の白鳳大地震で沈んだ黒崎之宮を再建・遷座 2011.06.17



標高が約41mの小さい山じゃけんど、ここも麓から頂上まで子供の頭ほどの石を敷き詰めた急坂が続いちゅう。

石はみな苔むしちょり、雨の降った後などに行ったら、多分、足元が滑って危ないなーと思いながら、鬱蒼とした樹木のトンネルを抜けると、綺麗で荘厳な社殿が姿を現す・・・・・。



神文は「丸に瘠三柏」と言われる柏紋。

因みに、土佐藩・山内家の家紋も丸に柏紋じゃけんど、此処とは、なんちゃー関係ないき!。

柏を図案化した紋である。
柏はブナ科の落葉喬木。
葉は広く、葉肉が厚いので、上古では食物を盛る食器とされていた。
『隋書倭国伝』に「倭人、皿や俎なく槲の葉を以てし、食うに手を用いて餔う」と記されてあるように、これは外国にまで知られていた。
食膳をつかさどる者を、古語で「かしわで」(膳夫)といったことにも関連がある。
食器として神事に使用されてから、柏木を尊重するようになり、「かしは木はもりの神」(『狭衣物語』『枕草子』)として神聖視された。
その後、製陶の技術が進んでも古儀にならい、祭事の神饌を盛るのに用いられたため、瑞祥・信仰的意義から、神職の家が柏葉を家紋とするようになった。
伊勢神宮の久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神社の宗像氏、吉田神道のト部氏、備前吉備津宮の大守氏などは、いずれも柏紋を用いた。

出典 : 日本「家紋由来」総覧




尻尾の感じからして虎?・・・・・なんじゃろー。



木鼻は、左右阿吽の業の獅子。





此処も、縁起も何にもなかったき詳細はよう判らんけんど、「鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社」竹内荘市・著にゃ、下記のように書かれちょります。

祭神は、説では素戔嗚命

当社は、浜改田・里改田・剣尾・立田の総鎮守で、もとは浜改田と里改田の境の田中に鎮座していたが、天文年間のころ当地に遷座された。・・・・・


天文年間と言うがは、天文元年(1532)~天文二十三年(1554)で、時代は室町時代。

時の将軍は足利義晴、足利義輝の頃。

土佐じゃ、長宗我部元親が生まれたがが天文8年(1539)で、まだ岡豊城が拠点じゃった頃に遷座したと言う事じゃき、それ以前からあった由緒ある神社ながですねー。

やはり、ここも長宗我部氏に庇護(保護)されちょった神社の一つと考えるがが自然じゃないろーか・・・・・。

祭神とされる(説)素戔嗚命は、スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)と言い、日本神話に登場する神さんで、「日本書紀」じゃ素戔男尊・素戔嗚尊等、「古事記」じゃ建速須佐之男命・須佐乃袁尊、「出雲国風土記」にゃ神須佐能袁命・須佐能乎命などと表記されちゅう。

スサノオを知っちゅう人らーの多くは、「ヤマタノオロチ(八俣遠呂智)」伝説じゃないろーか。

これは「古事記」と「日本書紀」にも、似たような記述のある話ながです。

以下、「古事記」のお話を。

高天原を追放されたスサノオは、出雲国の肥河の上流の鳥髪に降り立った。川上から箸が流れてきたので、川上に人がいると思って川を上ってみると、美しい娘を間にして老夫婦が泣いていた。
その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売といった。

夫婦には8人の娘がいたが、毎年、高志から八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)いう8つの頭と8本の尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤で、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、8つの谷、8つの峰にまたがるほど巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまった。

今年も八俣遠呂智のやって来る時期が近付き、このままでは最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうので泣いているのであった。

スサノオは、櫛名田比売を妻としてもらいうけることを条件に、ヤマタノオロチ退治を請け負った。
まず、須佐之男命は櫛名田比売を隠すため、彼女を櫛に変えて自分の髪に挿した。

そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、垣を作って8つの門を作り、それぞれに醸した酒を満たした酒桶を置くようにいった。

準備をして待っているとヤマタノオロチがやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。

ヤマタノオロチが酔ってその場で寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣を抜いてそれを切り刻んだ。

尾を切り刻んだとき剣の刃が欠けた。

剣で尾を裂いてみると大刀が出てきた。

これは不思議なものだと思い、天照御大神にこの大刀を献上した

これが天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)のちの草薙剣(クサナギノツルギ)である。

ヤマタノオロチを退治した須佐之男命は、櫛として髪に挿していた彼女を娘の姿に戻し、彼女と暮らす場所を求めて出雲の須賀の地へ行き、そこで「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣」を、と詠んだ。

ヤマタノオロチ - Wikipedia


聞いた事がある、お話じゃをー・・・・・。

この時、ヤマタノオロチを退治した時、出てきた剣が天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)で、石上布都魂神社で祭られたが、崇神天皇の代に石上神宮に納められたというが所在は不明とある。

ところで、これに似た話がもう一つあるねー。

ヤマトタケル(日本武尊)と草薙剣(クサナギノツルギ)・・・・・。

日本書紀から

熊襲を打ち破ったヤマトタケルが、東征の将軍に選ばれる。

天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。
ヤマトタケルは伊勢に寄って、倭姫命より天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)を賜る。

相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれたヤマトタケルは、野中で火攻めに遭ってしまう。そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。



スサノヲが出雲国で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇・八俣遠呂智)の尾から出てきた太刀が、天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)で、別名・草薙剣(クサナギノツルギ)「日本書紀」・草那芸之大刀「古事記」。
剣はスサノヲから天照大神に奉納され、天孫降臨の際にニニギ尊(瓊瓊杵尊)に手渡された

ニニギ尊が所有して以降、皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡(やたのかがみ)とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に皇女豊鍬入姫命により八咫鏡とともに皇居の外に祀るようになり、途中で垂仁天皇の皇女倭姫命に引き継がれ、あわせて約60年をかけて現在の伊勢神宮内宮に落ち着いた。

その後、倭姫命から、東国の制圧(東征)へ向かう日本武尊に渡された。東征ののち、尾張国で結婚した宮簀媛の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまった。
宮簀媛は剣を祀るために熱田神宮を建てた。


これら一連の話は、剣を解してつながっちゅうがです。

つまり、スサノオが倒したヤマタノオロチの尾から出た天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)を天照大神に渡し、さらにニニギ尊(瓊瓊杵尊)に渡る。

その後、倭姫命からヤマトタケルに渡る。

この剣こそが、熱田神宮の御神体で、天皇家の三種の神器の一つとされる草薙剣(クサナギノツルギ)ながです。


今日も長々と書きゆうけんど、ブログのサブタイトルに建依別之国・古代浪漫と土佐維新街道と書いちゅうように、此処からは与太咄(はなし)で土佐の浪漫話を・・・・・。

土佐にも、剣つながりで一つ似たような話があるよねー。

土佐国一之宮「土佐神社」の祭神・一言主神の話。

「古事記」にも出てくる話で、460年雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。
雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた
一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。


この時点では、天皇の方が一言主に恐れ言った格好に書かれちゅう。

ところがその後に書かれた「続日本紀」違う。

一言主神が天皇と獲物を争ったため、天皇が怒って土佐国に流されたとある。


此処じゃ、立場が逆転しちゅう。

この神さんが土佐国一之宮「土佐神社」の祭神・一言主神と言うがよ。

そんで、約300年後の764年になって、ようやく元の葛城に一言主神を返して欲しいとの願いが叶い、葛城の神は帰って行ったと言う・・・・・・。

この時に、「土左大神 天武天皇に神刀を献上」とある。

けんど、オンチャン的にゃこの話も嘘で創られた話で、征服者側(大和朝廷)から見たら、元々の日本に居た土着民族(土蜘蛛など)の一族が土佐におり、その種族の産土神(氏神さん)が一言主神じゃったと思うちゅう。

その産土神(氏神さん)一言主神を祠りよったがが、鴨氏・・・・・。

最初は土佐を中心にした勢力圏を一言主神(と言うか鴨氏)が握っちょったけんど、何処から来たか判らんような新勢力が攻めて来たか何かが起こったがやろー。

やがて権力闘争に屈指したか、鴨氏の権力が衰退したのか判らんけんど、兎に角、新勢力に忠誠を誓う証に差し出したがが、一言主神(と言うか鴨氏)の宝剣・天叢雲(アマノムラクモノツルギ)もしくは草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ばれる剣じゃないろーかと・・・・・?

それを裏付けるような、品物が土佐之国二ノ宮「小村神社」にある。

[双竜銜玉]の環頭と[倒卵形]の鍔という特徴から、製作は古墳時代末期で、大刀としては日本最古の伝世品と云われる、国宝・金銅荘環頭大刀拵・大刀身と言う剣が。


文化財・史跡 - 小村神社と国宝・金銅荘環頭大刀ほか

天草薙剣(アマノムラクモノツルギ)と呼ばれる剣は、これに似通った剣じゃないかと思うちゅうがです。


神話の世界のスサノオ = ニニギ = ヤマトタケルも同一人物じゃと思う。

この話も天皇の権力や空白の歴史を埋めるために考え出された創作話で、退治されたヤマタノオロチの八っの頭の一つに例えられちゅうがが、土佐の民じゃったと。

また学術的にゃ偽書とも言われるけんど、「先代旧事本紀」と言う本にゃ、一言主神はスサノウの子とも書かれちゅうとも言う。

それが本当なら、大和に行ったスサノウの子は饒速日命(ニギハヤヒ)と言う神さんだけで、説によっちゃー大物主・加茂別雷大神・事解之男尊・日本大国魂大神・布留御魂・大歳尊と同一視もされるがよ。

つまり、ヤマトタケルの子が一言主神とするならば、一言主神 = 饒速日命(ニギハヤヒ)ともなる。

「日本書紀」などの記述によると、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国の河上の地に天降り、その後大和国に移ったとされちゅう。


と言う事は、元々、大和朝廷(皇統系)とは別の支配者権力圏が何処かにあって、それが大和に移った風にも見えんかよ。

突拍子ものう、「大和は、土佐の勢力圏内の一つじゃった」と書いたら、「アホ!馬鹿!無知!無能!・・・・・」と言われるねー・・・・・(^^♪

与太じゃき、エエぜよ、それに、まだ続きがある。

「えー、まだ!長い」と言わんと、与太咄に付きおうてや・・・・・(^_^;)

この神さんの特技は、ドラゴンボールの筋斗雲や、孫悟空の筋斗雲じゃのうて、「天磐船に乗りて大空を翔行り」とあるように、磐船(石舟)ねに乗って、重力に逆らって空を飛びよったとか・・・・・。

土佐にゃ、この磐船伝承を裏付けるような神社もある。

香南市香我美町にある「天忍穂別神社」は、地元で「石舟様」と言われる神さんで、祭神は天忍穂耳尊と饒速日尊。
伝承に、「父神・天忍穂別命の鎮座している地に、父神を慕って石舟に乗って飛来した」と

香南市の野市にある「上岡八幡宮」も、磐船伝承がある。

勿論、一言主神を祀る土佐一之宮「土佐神社」にも、つぶて石伝説。

その「つぶて石」は、須崎市浦ノ内にある「鳴音神社」から飛んで来たと言われちゅう・・・・・。

それ以外にも、磐座(いわくら)伝承に関わる物もあるしねー。

兎に角、長うなったけんど、ここ剱尾神社は、神文の記述にも神職の家が柏葉を家紋とする・・・・、伊勢神宮の久志本氏、熱田神宮の千秋氏・・・・・とあるように、名前からしてもスサノウと剣に関連した神社ながでしょうねー。


あー、疲れた!、そろそろ終わらさんといかんねー。

最後まで与太咄に付きおうてもろうて、すまんかったき。

与太じゃ与太じゃと言いながら書きよっても、土佐にゃ面白いし不思議じゃと思う事が、こじゃんとあるき、楽しいがよ。

スサノウとヤマタノオロチ伝説をアニメ化した「わんぱく王子の大蛇退治」と言う東映動画1963年製作があります。


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