大石弥太郎生家跡 - 土佐勤王党に2番目に加盟



[ 高知県香南市野市町下井 ]


大石弥太郎は、文政12年(1829)香美郡古川村(吉川村)の郷士・大石平右衛門元介の長男として生まれ、名を元敬、通称・弥太郎と言い、圓(まどか)と言うのは後になって名乗った名前ながです。

国学は、武市半平太の叔父になる鹿持雅澄に学んだ事で、多くの影響を受けた仲間たち同様、勤王へと傾いて行ったがじゃろー・・・・。

また後年、土佐勤王党の同志となる門田為之助の父・門田利實にゃ、一玄琴も習うちょります。

じゃき、鹿持雅澄や門田利實を通して、坂本龍馬や家族らーとも顔見知りじゃったがですねー。


剣術は江戸で鏡心明智流・桃井春蔵の士学館で学んじょります。

文久元年(1861)3月、藩命で洋学を修行するため、江戸に出て勝海舟に師事しちょります。

この頃から、長州・薩摩・水戸の志士らーと交流を交わすようにようになるがです。

そいて江戸に出て来た武市半平太が土佐勤王党を結党するにあたっては、血判書に2番目に名を記し、土佐勤王党盟約文を起草したりと尽力しちょります。

文久3年8月18日(1863)に起こった政変以降、土佐勤王党に対する弾圧が始まり、武市半平太を始め多くの同志たちが獄に繋がれると、同志の釈放運動を展開しちょりますが、聞き届けられる事は無かった・・・・・。

慶応3年(1867)2月、新御留守居組に進められ軍備役となっちょります。

その年の5月に中岡慎太郎の周旋もあり倒幕のための薩土密約が結ばれると、大目付兼軍事総裁になった乾(板垣)退助の元で尽力する・・・・・。

また、イカルス号事件の時ににゃ、須崎の砲台で乾(板垣)退助らーと、警備にあたっちょりまして、もしかしたら坂本龍馬とも密かに接触したがじゃないかと思たりしちょります。

それに、慶応3年(1867)9月29日の坂本龍馬が最後の帰国となった、ライフル千丁を持ち込んだ際、交渉成立後に藩の許しを得て6年振りの実家に戻った時にゃ、龍馬を慕って集まった仲間たちの中にも、彼の姿はあったと言う・・・・・。

戊辰戦争じゃ、高松攻撃後、東征にゃ参謀として戦い、その功績により帰国後は、軍賞により新御馬廻に昇進しちょります。

新政府じゃ、軍事局監事兼監察、大隊付助教、権大属などを歴任し、明治4年免官しちょります。

明治維新後の開国政策への不満から、大楽源太郎とともに脱隊騒動を起こして敗北し各地を逃亡しちょった長州の富永有隣が土佐に逃れて来た時、同志と共に隠蔽庇護しちょっ事が発覚し、明治11年(1878)1月その時の罪を問われ松山の獄に繋がれるけんど、同年9月証拠不十分で釈放され土佐へ帰国するがです。

富永有隣 - Wikipedia:


その後は自由民権運動に身を投じ、旧郷士保守派の古勤王党の中心人物として活躍しちょります。

晩年は、高知城下に閑居し、易学の研究などで余生を送ったそうながです。

大正5年(1916)10月、88歳で天寿をまっとうしちょります。

参考・引用 : 「高知県人名事典」 高知新聞社




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