寺石正路墓 - 土佐の歴史・地理・考古・民俗学の第一人者




[ 高知県高知市小石木 ]


土佐近代考古学の先駆者であり、土佐の郷土史を紐解く土佐人たちにとって、偉大なる郷土史家・寺石正路先生のお墓です。

その、墓碑の撰文を書かれた方も、これまた偉大なる郷土史家・平尾道雄先生ながです。

寺石正路先生は、慶応4年(1868)高知城下の九反田に寺石可成の長男として生まれ、郷土史家、教育者じゃった方です。

小学校最終学年の頃と言いますから10~12歳頃からでしょうか、父の知人じゃった大井梅荘・小倉知行・橋本小霞に付き、漢籍や南画を学び、さらに自由民権運動結社の一つ「修立社」の準社員となっていたそうです。


今の中学校にあたる、九反田海南私塾分校にて、漢文・歴史・数学の基礎を学び、その後、橋本小霞の高弟・高木晴江に南画、漢籍を奥宮晩峰、漢詩を横山黄樹に指導を受けちょります。

明治18年(1885)7月、東京大学予備門(後の第一高等中学校)に入学し、正岡子規・南方熊楠・秋山真之らと知り合っちょります。

しかし、明治19年(1886)健康不良で静養のため帰高し、明治20年(1887)東京大学予備門中退し、佐川英学会講師となり、牧野富太郎とも知り合い、同年、高知共立学校の英語教師となる。

この頃より学問の方向性を社会学・人分類学的研究へと転換し、明治23年(1891)退職後、3月から8月の九州旅行じゃ、多くの考古学の成果をあげる。

その後、宿毛貝塚や平塚貝塚を発見し、四国に於ける縄文文化研究の先駆者となる。

以後、考古学・自然人類学・文化人類学(民俗学も含む)の論文・資料報告を発表し、明治26年(1894)に功績が認められ東京人類学会全国5名の地方委員に推薦される。

また明治25年(1893)から約30年、海南学校(小津高校)の教壇に立ち、退職後の大正15年(1929)からは土佐史談会の会長も勤めちょります。

多くの、郷土史関係の著作を執筆しちょりますが、中でも「南学史」は寺石先生の名を、全国的にしちょります。

晩年になっても、土佐の歴史・地理・考古学・民俗学のに第一人者として活躍された方でした。

敗戦の最中の昭和24年、81歳で天寿をまっとうしちょります。

参考・引用 : 「高知県人名事典」 高知新聞社




[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!  
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