忠魂護皇基之碑 - 龍馬の名が国威発揚の為に利用された





[ 高知県高知市浦戸・桂浜 ]


桂浜の坂本龍馬頌彰勲碑の右側に、自然石に彫られた細川潤次郎の和歌がある。

「とこしへに 国守るらん なき魂の 皇后の宮の ゆめに誓ひて」

坂本龍馬彰勲碑 - 桂浜で坂本龍馬像と共に観て欲しい石碑 2010.11.18

この碑が、如何言う経緯で建てらたがかは判らんけんど、かの有名な日露戦争の開戦前に、坂本龍馬が当時の皇后の夢枕に立ち、「自分の魂は海軍に宿り 日本軍人を保護つかまつる覚悟である。」と言ったという逸話に基づくものながです。

皇后とは、明治天皇の皇后・昭憲皇大后の事で、日本海海戦(日露戦争)の直前の明治37年(1904)2月、葉山の御用邸に滞在しちょった時の出来事ながです。

その話を聞いた、宮内大臣・田中光顕が坂本龍馬の霊でじゃと言った事が、明治37年4月13日付けの時事新報に「葉山の御夢」と題して掲載され、多くの国民の知るところとなって行ったがです。

因みに、時事新報は、明治15年(1882)に福澤諭吉の手により創刊された、日刊新聞。

要するに、坂本龍馬の名前が公に国威発揚の為に利用された瞬間じゃったが・・・・・。


此処からは、いつものオンチャンの与太咄(はなし)として読みよ・・・・・(^^ゞ。

明治維新後、土佐人たちは新政府に登用されたけんど、重要なポストにゃ居らんかった。

倒幕に貢献した土佐人を名目上は新政府に登用するも、政治には深く関与させないようにしたとも言えよう・・・・・。

と言うのも、倒幕の中心は薩長土肥と言われるけんど、その土佐の田中光顕、佐々木高行、土方久元らーは寧ろ天皇親政派とされるメンバー達で、龍馬や土佐勤王党の精神を貫いた人らーじゃったと言えるがです。

本来、倒幕は尊皇攘夷から始まっちゅうと言うても過言じゃないろー。

それに、新政府を創るにあたっては、大政奉還後の慶応4年(1868)3月14日に、明治天皇が宣布した明治新政府の基本政策・五箇条御誓文の下に、天皇を中心にした体制が敷かれたはずじゃけんど、実際にゃ新政府に天皇の意思は反映されず、結果的に見たら新政府は倒幕と言う名を借りて目論見で創りあげた、薩長両藩と岩倉具視の独裁体制に過ぎんかったがよ。

じゃき、田中光顕、佐々木高行、土方久元らー天皇親政派の土佐人は、特に口惜しく思うちょったがじゃないろーか?。

何とかして、今一度天皇の権威を取り戻し、尊皇へと道を戻したいと・・・・・。

始まりは、明治6年(1873)の明治六年政変(征韓論政変)の際、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した事からじゃろー。

その中にゃ、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣が居った。

板垣退助は、土佐に戻んて来て、自由民権運動に・・・・。

西郷隆盛や江藤新平が辞任した事で、多くの薩摩や佐賀などの新政府に不満を持つ人々が立ち上がり各地で士族の乱が起こり、明治10年(1877)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による最後の武力反乱とされる西南の役に繋がって行った。

ここらから、新政府樹立当初の薩長両藩の勢力図は、長州系の一藩独裁体制の構図へと傾いて行ったがじゃろねー。

それが、今日まで続いちゅうと言うても過言じゃないろー・・・・・。

この西南の役で、今日のように情報伝達は速やかに全国に流れていなっかたにしても、国民の目からしたら、政府への不審は白日の下に晒されたと思う。

佐々木高行は、宮中や元老院を舞台に谷干城・元田永孚らともに「天皇親政運動」を主導して、明治天皇を擁して伊藤博文ら政府要人の排除に動きよった。

明治11年(1878)明治天皇一行は、西南の役後の国内の弱体化を懸念し、天皇の下に一体化を訴えるために、地方を巡幸をする。
その巡幸の最、宮中の待補じゃった佐々木高行をはじめ、土方久元、吉井友実らーは、政治そのものが腐敗・独裁により混迷しちゅうのを憂い、「万機親裁ニ出テ臣下ニ御覧ナカランコトヲ懇請」と明治天皇に言上する。

出典 : 「還暦之記」 元田永孚・著



ようは、「天皇が自ら政治に関わ事が大事じゃ」と言う様な意味じゃろー・・・・・。

佐々木高行らーは、政府と天皇の意思の疎通の橋渡しを、自分達従補らーがするしかないと考え、岩倉具視や伊藤博文らーに働きかけるが、時の権力者は政府側じゃった。

いくら尊皇を説いて倒幕を成し得ても、本音は徳川幕府に対する積年の恨みだけで動き、やっと成し得た政治権力をミスミスと天皇に返上する気は無かったがじゃろー。

逆に政府は、天皇が主体になって独自の政治思想の下、政策に口を出される事や、政府に批判的な従補に宮中を支配される危機感を抱いたがじゃろー。

明治11年(1878)12月24日、宮内省職制の改正が行われ、佐々木高行らーの従補の格を勅任官に格上げし、政治的発言力を弱める事とした。

ついで明治12年(1879)10月13日、太政官たちが従補廃止をだすがです。

是年明治十年十月従補ノ職ヲ廃セラレ・・・・・。

出典 : 「古稀之記」 元田永孚・著


最終的にゃ、明治18年(1885)の太政官制を廃止して内閣制になった事で、佐々木高行らーの「天皇親政」の夢は消えたがです。

前筋が長うなったけんど、まだリーサル・ウエポン(最終兵器)が居った。

それが、田中光顕。

彼は、明治31年(1898)から宮内大臣を務めちょります。

そいて、降って湧いたように、土佐人らーの掲げた尊皇の夢じゃった「天皇親政」を成し得るかも知れんような、噂が巷に流れたがです。

それこそが、皇后の夢枕に立った坂本龍馬の噂じゃった・・・・・。

事の真相を、「維新風雲回顧録」田中光顕・著より引用すると

ちょうどバルチック艦隊が、極東に向かって、発航したという伝聞があった。日本の海軍がこれを迎えて、雌雄を決する時になると、日本艦隊が必ず勝つに相違ないと信じていたようなものの、しかしまた、どういう結果になるかという事について、一点不安な気分に閉ざされていたのも事実だ。

あたかも、その前後であった。・・・・・



昭憲皇太后様の御枕辺に、坂本が、ふと現れた。

不に落ちんがは、幾等本人の回顧録にしても、最初から龍馬本人と断定して書いちゅう事なが・・・・・。

「微臣坂本竜馬でござりまする、このたびの海戦につきましては、いささかも御懸念あそばす必要はござりませぬ。必ず皇国の勝利でござります、力及ばずとはいえども、皇国の海軍を守護いたします、幸いに叡慮を休ましめ給え」と言ったと言う・・・・・。

不思議な夢を見た皇后は、最初、香川敬三に話し、それを「どうも、妙だ、これこれだ」と、田中光顕に話した。

そんで、田中光顕が坂本龍馬の写真を持参し、その後、写真を見た皇后が「おお、これは坂本竜馬の写真である」

これが、巷に広まった噂の始まりながです。

そんで、こう結んじゅう。

そういうことが、あるべきことか、あるべからざる事か、ここでは、それを詮議することは無用である。ただ竜馬の献身報国の至誠は、死後といえども祖国の上を守っている。死してなお死せずというのは、思うに竜馬のごとき人物であろうと思われる。

実際の所、皇后の見た夢が真実どの様な夢かは判らんし、そもそも「維新風雲回顧録」田中光顕・著の内容そのものを100%信用はしちゃーせんと言う事を前置きしてじゃけんど、田中光顕の文章に「詮議することは無用」とあるように、詮索すりゃーこの話は嘘・作り話とも取れる。

実際、尾ひれが付いた話じゃと思うちゅうがじゃけんど・・・・・。

それによ、噂かなんか知らんけんど、新聞を通して巷にリークしたがは、誰ぜよ。

夢の話を知っちょったがは、香川敬三と田中光顕の二人だけ。

一番、この話に飛びついたがは、土佐人の田中光顕じゃろーねー。

摩訶不思議な夢と、龍馬の名前を上手く利用することで、世論も味方につけて天皇が日露戦争に関して口出しを出来る機会を作り、佐々木高行らーが運動してきた念願の「天皇親政」の夢を再度叶えようと考えたがじゃろーねー。

けんど、残念ながら機運が高まる前に、戦争は終結し、天皇が政治に携わる事はなかった。

ただ、この時の龍馬に関する流言飛語は、今日の龍馬伝説の大きな要因じゃと思うちゅうがです。

しかしながら龍馬の名は、その後の一時期は軍国主義のシンボル扱いされ、神懸り的に利用され龍馬と言う象徴が一人歩きする時期もあった。

その証拠に、太平洋戦争の最中にゃ、武器生産に必要な金属資源の不足を補うためとられた金属回収策が発令され、山内容堂・山内一豊・その他諸々の多くの銅像、それに幾多の梵鐘までもが回収され、溶かされ武器弾薬になったにも関わらず、桂浜に建つ龍馬像だけは、撤去される事無く今日まで残った

それに、昭和3年5月27日の完成披露式典にゃ、内閣総理大臣・田中義一をはじめ、そうそうたる人々が参列したり、日本海軍の艦船「浜風」が来航したりと・・・・・。

もっと言うたら、完成披露式典が行われた5月27日は、龍馬が皇后の夢枕に立って、「皇国を守る」と言って戦い勝利した日本海海戦(日露戦争-1905年5月27日~5月28日)を記念して制定された海軍記念日やったが。

銅像を建立に関与したメンバーらーも、この式典の日取りの意味合いも判っちょった筈じゃきねー。

ようは、坂本龍馬像建立の美談の裏にゃ、田中光顕の画策から始まっり、その後の政治・軍部をと巻込んだ国策じゃったと言えるがじゃないかねー。


こうまでして、死して尚、戦前の政府や軍部に坂本龍馬は意図的に利用されたがです。

因みに、太平洋戦争の敗戦とともに海軍記念日は廃止されたけんど、現在の海上自衛隊は、5月27日前後に基地祭などの祝祭イベントを設けちょるとかー・・・・・。


この石碑の和歌一句の中にゃ、こう言ったお話が秘められちょりますきねー。


龍馬の声が聞こえたとしたら、こう言うたろー。

「光顕、おんしゃ(お前は)なの(何)しよりゃー。わしゃー、日本国を西洋列強から守れとは言うたけんど、おんしらー(お前達)の利害関係の為に、名前を使って欲しゅうなかったぜよ。おかげで、わしの本意じゃなかった戦に加担させられたろーが・・・・・」と・・・・・。

今日、平和な世の中になっても、龍馬に対して畏敬の念や敬意を払いもせず、ただ安売りの特売品の如く、名前のみ無造作に使われゆうがが現実ながですき。

「おおのもー・・・・おんしらーも、いい加減にしいよ・・・・・。」

「維新風雲回顧録 田中光顕/著
「龍馬百話」 宮地佐一郎/著
「坂本龍馬大事典」 新人物往来社
昭憲皇太后 - Wikipedia:
西南戦争 - Wikipedia:
明治六年政変 - Wikipedia:
田中光顕 - Wikipedia:




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