森横谷 - 野中兼山の罪名の追赦を願う上書を奉じる 



[ 高知県高知市前里・北天場山 ]


横谷は号で、通称・四郎、名を正名と言うがです。

文化2年(1805)に、土佐藩の馬廻役・森勘左衛門芳材の4男に生まれ、同属・森太郎大夫氏道の養子になっちょります。

藩校・教授館に学び、文政11年(1828)江戸に出て兵学・儒学を学び、帰国後は、文武館司業小目付、鉄砲奉行、郡奉行、山奉行、作事奉行を務める。

天保14年(1843)、野中兼山の罪名の追赦(恩赦:大赦・特赦)を願う上書を君主に奉じちょります。

著作に「土佐国人物志」「野中遺事」などがある。

[ 参考・引用 ] 「土佐の墓」 山本泰三著


実父の森勘左衛門芳材は、天明の改革の時の大目付じゃった人。

天明の改革ちゅうがは、土佐藩第9代藩主・山内豊雍の時代の話なが。

江戸時代中期の天明2年(1782)から天明8年(1788)にかけて発生した、江戸四大飢饉と呼ばれる飢饉のひとつで、日本の近世史上最大の飢饉と言う、天明の大飢饉が起こるが。

被害は東北地方の農村が中心じゃったようじゃけんど、全国で数万人(推定で約2万人)の餓死者が出たと言うがですから、土佐にも大きな影響があったようながです。

山内豊雍 - Wikipedia:から引用

天明の大飢饉による被害で藩財政が困窮したため、藩士の知行借上などを行なっているが、効果は無かった。
このため、天明7年(1787年)に吾川郡池川・名野川の百姓が伊予に逃散する。
このため、豊雍は谷真潮、尾池春水、久徳直利などの人材を用いて藩政改革に乗り出す。
まず、土佐藩20万石の格式を10万石に切り下げて節約を行ない、問屋制を廃止して五人組の強化などを行なった。
これら一連の改革を天明の改革といい、藩財政はいくらか再建されたという。




■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!  


冬季に撮りためた写真から・・・
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