島村寿之助 - 土佐勤王党に18番目に加盟し、武市半平太の参謀役



[ 高知県高知市五台山 ]


島村寿之助は、文政4年(1821)高知城下新町(現・高知市桜井町)に土佐藩郷士・島村祐雅寿の4男として生まれ、名を寿栄、寿郎、のち雅事と言うがです。

幼少より武術に熱心じゃったようで弓術・砲術学び、特に槍術が得意じゃったようですねー。

寛永3年(1850)、東隣に武市半平太が越して来る。

安政元年(1854)、武市邸に道場が道場が造られると、午前中は島村寿之助が槍術を、午後にゃ武市半平太が剣術を教えるようになるがです。

坂本龍馬も、武市半平太の道場に足を運びよったき、島村寿之助とも常日頃から親しい間がらじゃったがでしょう。

ここで、島村寿之助と武市半平太が一緒に、武術を指導するようになった切っ掛けは、武市半平太の妻・富が、島村寿之助の長兄・源次郎の長女じゃったき、親戚同士になった事と、道場運営の資金繰りにも関係しちゅう・・・・・。



また、武市半平太と妻・富の婚姻関係から、坂本龍馬の父・八平さんの本家の山本家や、島村寿之助の親戚・島村衛吉らーとも、関わってくるがです。

文久元年(1861)武市半平太が土佐勤王党を結成すると、土佐勤王党血盟書にゃ島村寿栄として18番目に加盟しちょります。

土佐勤王党は一藩勤皇を目指して、吉田東洋らーに説くが佐幕派の土佐は動かず、文久2年4月8日、業を煮やした土佐勤王党は吉田東洋暗殺と言う暴挙にでるがです。

吉田東洋暗殺の密議にゃ、参謀的存在じゃった島村寿之助も関わっちょるし、その後は、同志を募るため土佐を奔走したり、文久2年(1862)10月にゃ江戸に上る山内容堂を警護する為に五十人組を結成し、その隊士の費用等も島村寿太郎と工面しちょり、金銭面でも土佐勤王党に貢献しちょります。

因みに、島村寿太郎は武市半平太の妻・富子の弟で、島村寿之助の長兄・島村源次郎の長男で、土佐勤王党にゃ24番目に加盟しちょります。

文久3年(1863)になると、それまで勢い付いちょった土佐勤王党に暗雲が立ち込め、同年6月8日、平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太が青蓮院宮事件の責めを請け切腹させられるがです。

一気に幹部達を失った土佐勤王党に、更なる追い討ちをかけたのが、8月18日に起こった政変じゃった。

禍は土佐にも垂れ、土佐勤王党弾圧の本格的な幕開けとなっていったがです。

武市半平太は勿論、多くの同志が捕えられるが、島村寿之助は当初、類族預けの自宅謹慎処分となるけんど、翌年慶応元年(1864)ついに投獄され、永牢処分となっちょります。

3年後の維新の大赦で釈放されると、京都藩邸の留守居役に命じられちょります。

戊辰戦争じゃ、板垣退助率いる迅衝隊に参加し、多くの元・土佐勤王党同志らと共に活躍し、後にゃ陸軍省や司法省に勤めちょります。

高知にもんて来てからは、元・土佐勤王党の殉難した仲間達の顕彰に尽すも、明治18年(1885) 64歳で亡くなっちょります。

「土佐の墓」 山本泰三著
「高知県人名事典」 高知新聞社




[ 注意! ]

■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・ヤマダニ・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!  


冬季に撮りためた写真から・・・
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