久武肥後守昌源 - 長宗我部譜代の家臣で久万城主



[ 高知県高知市西久万・久万墓地 ]


墓の上部や表面の一部などが剥離しちょりますが、長宗我部元親の家臣で久万城主じゃった久武肥後守の墓石ながです。

久武肥後守は、長宗我部家の譜代の家臣で、家老十五人衆の一人で、後に桑名氏・中内氏と共に三家老と称されちょります。

久武肥後守昌源にゃ子供が二人おり、兄は伊予岡本城攻略の際、敵の西園寺十五将に数えられるとも言われる土居清良に攻められ亡くなった、佐川城主・久武内蔵助親信

佐川城址 - 長宗我部家臣・久武親信の居城 2011.03.10

その際、死期を悟った久武内蔵助親信は、元親に「弟の親直は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残して逝ったがですが、聞き届けられ無かったのか、親信亡き後は弟が家督を継ぎ、元親に仕え佐川城主となるがです。

その弟は、長宗我部元親の長男・信親が戸次川の戦いで戦死し家督相続問題が起こった際、元親の四男・長宗我部盛親を支持し、反対派の吉良親実・比江山親興に対しては元親に讒言して粛清し、盛親の兄・津野親忠をも殺すように進言したため、盛親は兄殺しを家康にとがめられて改易され、やがて長宗我部家を滅亡へと追いやった張本人ながです・・・。

また、その事件が発端で怪異が起こり、土佐最大の怨霊とされる「七人みさき」伝承が伝わっちょります。

その弟とは、奸臣(よこしまな家来)として名高い久武内蔵助親直ながです。

当の本人(親直)は、長宗我部家滅亡後、土佐を去り、肥後・加藤家に仕えたと言われちょります・・・・・。

皆山集には、「土佐郡久万村金性院後 久武肥後守墓 天正十一年葵末二月十三日・・・・・久武昌源ト云アリ・・・・・」

「土佐の墓」 山本泰三著 より

関連記事

  



0 Comments

Leave a comment