土佐藩須崎中砲台跡(寺田寅彦療養の地) - 須崎  




[ 高知県須崎市南古市町 ]


チョッと前、ここら辺をブラブラと散策しよって、真新しい説明板を見つけたがです。

それにゃ、幕末期の土佐藩須崎中砲台跡と寺田寅彦が療養に来ちょった際、泊まっちょた旅館の跡でもあるとか・・・。

と言う訳で、もったいぶって2回に分けて書きますき・・・(^^ゞ

最初は、土佐藩砲台跡に付いて・・・。

幕末に黒船が来て江戸の町は大騒ぎになり、巷にゃ攘夷の嵐が吹き荒れて行った時代、各藩が海岸防備の為に砲台を築いて行ったがですが、土佐も須崎の他に浦戸や前浜等に砲台を築いて行ったがです。

そんな訳で、須崎にゃ3箇所の砲台が築かれ計14門の砲があったそうじゃけんど、明治維新後、説明板に書かれちゅうように民有地化されたりして、現在、史跡として保存されちゅうがは西砲台だけながです。

土佐藩砲台跡 - 国・史跡(須崎市)2010.10.24

着工は、文久3年(1863)7月から始まって、僅か約1ヶ月半の短期間で完成しちょります。

東砲台は半円状、中砲台は横一線状、西砲台は始めは円形状で、その後、半円状じゃったそうです。

実際、異国船との戦闘状態は無かったけんど、3箇所の砲台は臨戦態勢となり、緊張状態を迎えた事があったがです。

それは慶応3年(1867)7月6日、長崎でイギリス水夫が殺害されると言うイカルス号事件が起き、下手人が土佐出身の海援隊士じゃと容疑が掛かったがです。

この時、イギリス行使ハリー・パークスが乗った英艦・バジリスク号が土佐藩と交渉するため須崎湾に入港し、この砲台の沖合いに停泊しちょります。

砲台に居った海岸守備兵の多くは、噂にゃ聞いた事があっても、実際に見るがは始めての者が多かったろーき、きっと大騒ぎじゃったろー。

坂本龍馬も、この時、須崎湾に停泊しちょった土佐藩軍艦・夕顔丸の船上から陸上(砲台)の様子を見てのエピソードがあるがです。

龍馬が「英艦の檣灯(しょうとう)に戦闘旗も揚げていないのに、あの陸上の騒ぎは笑止ではないか。」と船上の土佐藩士に聞いたら、「英艦ではなく、幕艦を仮想敵に見立てて演習中だ。」と、答えたと言うがですき。

因みに、この時、砲台で指揮をしよったがは乾退助、後の板垣退助なが。

今回、中砲台跡が判ったがじゃけんど、残り東砲台跡は、何処ら辺になるがじゃろー?


MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment