門田為之助墓 - 土佐勤王党に5番目に加盟



[ 高知県高知市福井町・奥福井の山 ]


門田為之助は、天保9年(1838)、香美郡山北村の郷士・門田宇平の長男として生まれ、名を實毅と言うがです。

文久元年(1861)当時、江戸藩邸に居って既に長州や水戸の志士と交流しよったようで、武市半平太が江戸で土佐勤王党を結党すると、5番目に加盟しちょります。

山内容堂の信頼があったようで、従士目付けをしよったそうながです。

坂本龍馬も慶応3年1月22日付で、長崎から乙女姉ーやんに送った手紙に下記のように書いちゅう。

此度、門為参候て海山の咄御国の咄も聞つくし、誠におもしろく奉礪存候。
然、私の心中などのこらず此の為に咄有之候間、くは敷御聞取可被遣と存候。


この門為と言うのが門田為之助の事ながです。

文久2年(1863)11月14日、長州の過激志士たちが横浜を襲撃する計画が浮上するがですが、この計画を知った山内容堂によって長州藩の毛利定広に伝えられ、計画は未遂に終わるがです。

「維新土佐勤王史」にゃ、計画を知った武市半平太が三条実美・姉小路公知両勅使に内報する一方、鍛冶橋の土佐藩邸に向かい、重臣・小南五郎右衛門を通して山内容堂に計画を伝えたと・・・。

この計画は、高杉晋作や久坂玄端が発案したそうで、メンバーの中にゃ土佐勤王党の弘瀬健太も居ったがです。

そんで計画を知った長州藩・世子(世継)毛利定広は、中止の説得のため藩士11名と梅屋敷に出向き、また、土佐藩からも門田為之助や岡本恒之助らーも同席したがです。

結局、説得により襲撃計画は中止され高杉ら長州の過激志士らーに酒肴が振舞われちょったがですが、そこへ馬を走らせて現れた長州藩・周布政之助が酔った勢いで、山内容堂を辱める暴言を吐き、土佐藩士を激昂させると言う騒動が起こるががです。

主君に横浜襲撃が計画されちゅう事を伝えた事を知り、山内容堂に対する嫌味を言ったがですろー。

取り合えず、その場は高杉晋作と久坂玄端が非礼を詫び取り成しちょりますが、土佐勤王党に好意的でない土佐藩の旧・重臣らーは、周布政之助が主君・山内容堂を辱める暴言を吐いた酒宴に同席しながら「何故、斬らなかった」のかと咎められ切腹させられそうになるがですが、当の山内容堂の「その必要なし」と言う一言で命拾いしちょります。

元々身体が弱かったのか、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される慶応3年11月15日の少し前の11月6日、当時不時の病と言われた労咳(結核)で病没しちょります。

享年30歳。

志半ば、新しい夜明けを見る事無く逝ってしまったけんど、大政奉還が成った事を知った事だけでも、少しは報われたがじゃないろーか・・・。

「土佐の墓」山本泰三著にゃ、下記のようにも書かれちょります。

佐々木高行は、門田を傑出した人物だと評し、田中光顕は始めあって終わりなきを惜しむと言ったと言う。




■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!  
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