清川神社 - 御祭神は長曽我部元親をはじめ山内政権に恨みを持つ三柱





[ 高知県高知市比島町2丁目 ]


歴史上、数々の政権に関わるイザコザに巻込まれ、都を追われ遠流(都を遠く離れた土地に流した)された人々は数知れん・・・。

例えば、その一人に政権と学派の争いで大宰権帥に左遷されたが、翌々年、京都に戻れないまま失意の内に配所で没した菅原道真がおる・・・。

道真の死後、都や国内に疫病や干ばつなどが相次いで起こったり、その干ばつ対策について会議中じゃった京都御所の清涼殿に落雷があったりと、当時の都人にゃ不可思議と思われる物事が発生しちょります。

これら一連の奇々怪々な物事を、菅原道真の復讐じゃと信じ、「日本最大の怨霊」として平安京の貴族達は恐れ、その後、御霊を鎮めるために建てられたのが、御霊・雷神として祀られ、学問の神様として今日に知られちゅう北野天満宮があるがです。


ちょっと前置きが長うなったけんど、土佐にも土佐藩山内家に忌み嫌われた、三代怨霊がおるがです・・・。

その怨霊を祀るのが、ここ清川神社なが。

‏創建の詳しい時期は判らんけんど、御祭神は長曽我部元親・野中兼山・薫的和尚の三柱で、土佐人じゃったら判ると思うけんど、関ヶ原の戦い後に土佐藩主となった山内家に対して恨みを持っちゅうと思われる人らーです。

けんど土佐の庶民からは逆に畏敬されちゅう、土佐の偉人達ながです。

畏敬 とは - コトバンク : 崇高な物や偉大な人を、恐れ敬うこと

長曽我部元親は、ご存知の方も多いと思うけんど、四国を統一したとされる戦国大名じゃけんど、元親の死後、家督を継いだ長宗我部守親が関ヶ原の戦いで負け、その後起こった大坂夏の陣でも敗れた後、捕まって斬首され長曽我部家は滅亡するがです。

戦後、勝者側として土佐に入国した山内一豊は、旧領主・長曽我部家に関わる家臣や一両具足の者達の復習を恐れ、根倒しにして行ったがです。

それでも生き延びた一両具足達が郷士となり、幕末の土佐の表舞台に躍り出て倒幕を行ったのは事実で、その事は徳川幕府を倒したと言う事の他に、見方を変えたら山内政権を倒したと言う事にもなるろー。

ようは関ヶ原の戦い以後、約250年後に徳川家・山内家への復讐が成就したとも取れる。・・・(^^ゞ

元親公墓 - 長宗我部元親 2008.11.24

野中兼山は、このブログでも何度か取上げちょりますが、土佐藩二代藩主・山内忠義の時代の家老じゃった人ながです。

潅漑や築港・社会・宗教改革、それに各種産業の発展に勤め、明治維新にいたる土佐藩の経済的基盤を構築した偉人ながです。

けんど、政権を担って国内(土佐)の基礎作りをする上にゃ、まず必要ながは財源じゃねー。

そのために彼の取った政策は、過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止をしたもんやき領民の不満があった事も事実じゃった。

「野中兼山」の遺構 - 新川の落とし 2009.09.27
「野中兼山」に感謝して - 春野神社 2009.09.25
野中兼山の偉業の一つ - 八田堰 2009.09.22
野市台地を潤す - 史蹟・三又 2009.07.10
我が国最初の掘り込み港湾 - 手結港 2009.06.30

それと野中兼山の時代に長宗我部の残党を郷士に取り立てた事は、逆に上士らーの反発を招く事になったがです。

野中兼山を擁護しちょった土佐藩二代藩主・忠義が隠居し実権を失うと、彼の政策に不満を持っちょった三代藩主・山内忠豊の家老らーが、野中兼山を失脚させ、一族を宿毛に幽閉するがです。

数年後、野中兼山は失意の中、没した。

ただ悲惨なのは、宿毛に幽閉された野中兼山の一族じゃった。

なんと、幽閉が解かれたがは野中兼山の死後40年後の事で、山内家は野中兼山一族の復讐を恐れてじゃと思うけんど、男系が絶えるまで一族を幽閉すると言う報復が行われたがです。

陰湿じゃろー・・・

野中婉女宅跡 - 野中兼山の娘 2010.04.22
野中兼山邸跡の碑 - 本来の跡地に建てられちゃーせん理由は 2009.11.20
野中兼山像 - 春野 2009.10.08
兼山神社 2009.04.14

薫的和尚は、寛文11年(1671)に土佐藩二代藩主・忠義の戒名の文字の間違いを指摘した事が発端となり揉め事が起こり、対立した相手側の住職の讒言で無実の罪を着せられ投獄されるがです。

讒言 とは - コトバンク : 事実を曲げたり、ありもしない事柄を 作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと


けんど薫的和尚、土佐のイゴッソウの元祖と言われるだけあって自身の信念を貫き通し、七 日間の絶食後、抗議の為、舌を噛み切って獄中で入滅するがです。

和尚が如何いて怨霊扱いされたかと言うと、死後、藩主一族に怪異が生じたがです。

そんで、こりゃー薫的和尚の祟りじゃとなったがよ。

実は、この事件も元々は、旧領主・長宗我部側の瑞応寺の住職・薫的和尚と、新領主・山内側の真如寺との対立で、ようは長宗我部家と山内家の対立の構図ながです。

薫的和尚の御廟 - 薫的神社 2010.06.18
薫的神社 - 薫的和尚 2010.05.20

この長曽我部元親・野中兼山・薫的和尚が、山内政権から見て恨みを持っていると恐れられた、土佐山内家に対する三代怨霊と言われる由縁ながです。

けんど、野中兼山と薫的和尚が怨霊とされる要因は、長曽我部滅亡が端を成す事も、お判りになったろー・・・。

前述でも書いたけんど、徳川幕府の崩壊、いや山内政権の崩壊は、長曽我部滅亡から始まった復讐劇の結末じゃったがじゃないろーかねー。

まあ、これもオンチャンの勝手な想像を含めての、お話ですが・・・(^^ゞ

因みに普通、土佐三代怨霊と言われるのは野中兼山・薫的和尚と、「七人御崎の怪異」で有名な土佐最大の怨霊とされちゅう長宗我部元親の甥・吉良親実の霊です。


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