渡辺弥久馬邸跡 - 龍馬最後の帰郷の際、談判に関わる



[ 高知県高知市大川筋 ]


「龍馬 ゆかりの人と土地」高知県内版・高知県立坂本龍馬記念館に掲載されちゅう、「天保年間高知廊中心図」と言う古地図にゃ、中の橋から左に二軒目に渡辺弥久馬と書かれちゅう。

当時の位置は一軒一軒の屋敷の広さも違うろーし、逆に現在の街並みは、戦後の区画整理等により変わちゅうと思うき、単純に此処とは確証は出来んけんど、大よそ対岸の写真に写っちゅう範囲に在ったがでしょう。

坂本龍馬との関わりも、こじゃんとあるが。

長崎で起こったイカルス号事件の際にゃ後藤象二郎と、イギリス公使ハリー・パークスとの談判に立ち会うちゅう。

それに、坂本龍馬がライフル千丁を携えて土佐に最後の帰国をした時にも、密かに、この江ノ口川から小船を出して、龍馬との交渉に出向いちゅうがです。

渡辺弥久馬は文政5年藩(1822)上士・斎藤利成の子として生まれちゅう。

若くして藩主・山内豊煕の御側物頭として仕えるが、おこぜ組に加わったことから1843年(天保14年)に反対派によって失脚させられる。

後に吉田東洋の命によって復職し、近習目付、上士銃隊総練教授などを歴任後、慶応年間には仕置役・家老となる。

明治維新後は名を「斎藤利行」と改名して、新政府に仕える。

1870年(明治3年)には刑部大輔となり、続いて参議として明治政府の中枢に経ち新律綱領編纂にあたるが、翌年西郷隆盛と木戸孝允の対立から全参議が辞任することになり斎藤もこれに従った。

その後、病気のために一時故郷高知県に戻って静養していたが、板垣退助が征韓論政変で下野して自由民権運動を起こすために立志社を結成すると、東京にいる佐々木の依頼を受けて原轍とともにその切り崩しにあたるとともに高知の反板垣勢力の結集にあたることになる。

前者は一定の成果を上げたものの、後者は結果的に旧佐幕派勢力の復権を招き、佐々木・斎藤も板垣と同類(新政府を作った裏切者)として糾弾されたために失敗に終わった。

斎藤利行 - Wikipedia:




MapFan地図へ ← 大よそ、この周辺
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment