柳井健次墓 - 土佐勤王党に6番目に加盟




[ 高知県高知市福井町・祇園山 ]


柳井健次は天保13年(1842)に、当時の土佐郡小高坂村(現・高知市)の柳井俊蔵の二男として生まれ、名は友政。

坂本龍馬より、6歳年下。

家老・深尾家家臣じゃったけんど、藩の直臣に登用され江戸に遊学し、諸藩邸を往来し有志と交わっちょります。

江戸で土佐勤王党が結成されると6番目に加盟し、半平太や島村衛吉、河野万寿弥と共に土佐へ帰国しちゅう。

文久2年10月にゃ五十人組に加わり、五十人組の7番組伍長となり、配下にゃ片岡団四郎・片岡佐太郎・谷脇清馬・高橋俊助・片岡盛蔵がおった。

文久3年(1863)八月十八日の政変が起こり、土佐でも土佐勤王党への弾圧が始まると彼も身の危険を感じ、脱藩して長州三田尻の招賢閣に入るがです。

そんで過激派浪士の集まり忠勇隊に参加し、翌年・元治元年(1864)7月19日の禁門の変に参戦するがです。

けんど、堺町門の戦闘で銃弾を受け、最後は23歳の若さで自決しちょります。

「土佐の墓 その1」山本泰三著・土佐史談会




墓碑の側面は全部は見れんかったけんど、左側面にゃ「元治元年七月於京都討死」と刻まれちょります。

オンチャン的には「討死」の二文字が、無念さを感じぬにおれんかった。


■ 墓探しで山に入る場合は、季節によっては、マムシ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。

特に3月~12月頃、山や藪に入る場合、マムシに、充分に御注意の事!  
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