高知縣護國神社 - 始まりは龍馬らー土佐藩士105人の霊を祭る



[ 高知県高知市吸江 ]


今年、平成23年(2011)は、土佐勤王党結党150周年ながです。

と言う訳で、最初の記事は「高知縣護國神社」から始めますき。

関係ないろーと思う人も居るかも知れんけんど、大間違いぜよ。

確かに、現在じゃ明治維新後から太平洋戦争で亡くなった高知県出身の英霊4万1千余柱の御霊も祀られちゅう。

けんど、始まりに関係しちゅう。


明治元年(1868年)、土佐藩主山内豊範が藩校高知致道館で、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村虎太郎をはじめ東征の陣歿藩士105柱を招魂し、その御霊を鎮祭するため、現在の五台山大島岬に大島岬の地に社域を定め、翌年の明治2年に建社の土地に因んで大島岬神社と称して社殿竣工とともに神霊を鎮座地に奉還したことに始まる。

明治8年5月31日に招魂社と改称、昭和14年(1939年)に高知県護国神社に改称して特定護国神社となった。

第二次大戦後は占領下における宗教法人令によって国の管理を離れ、社号も元の大島岬神社と称していたが、崇敬者多数の熱望により、1959年(昭和34年)元の社名に復した。 1966年(昭和41年)7月1日、神社本庁の別表神社に加列する。

[ 抜粋引用 ] 高知縣護國神社 - Wikipedia


つまり始まりは、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎をはじめとする、幕末から戊辰戦争にかけて、命を落とした土佐藩士105人の霊を祭ったのが始まりじゃき、彼らが最初の祭神になるが。

その多くが、土佐勤王党に何らかの関わりが有る維新の志士たちながよ。

当初、岡田以蔵は「人斬り」じゃったと言う理由で外されちょったけんど、その後、ちゃんと祭神に列席しちゅう。

本当は、以蔵かて、自ら進んで人斬りをしたかった訳じゃなかったと思うけんどねー。

時代が、彼を人斬り以蔵として、歴史の役割を与えたがですき。

いっつも書くけんど、皆ー、歴史を進める上で必要な役をこなして逝っただけですろー。


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6 Comments

KY さんへ">

KY さんへ  

Re: うーむ様へ

KY さんへ">

>半平太はリーダーとしての度量と態度をとることができなかったし、その資質が無かったのでしょう。

何とも判りません・・・。

ただ一つ言えるのは、武市瑞山は、あの時代に如何しても「攘夷」が必要不可欠じゃと信じ、またそれを仲間たちに信じさせ、激流の中に巻き込んで行った事の方が悲劇だと思うちょります。

維新を見ずに逝ってしまった多くの仲間たちも、生き残った同志たちも、皆、生死には関係なく「攘夷」と言う名の犠牲者です。

それは龍馬も慎太郎も武市瑞山も、それに岡田以蔵だって皆同じです。

岡田以蔵の記事を書くと「裏切り者」を擁護するだとか、「美化して綺麗ごとにするな」とか批判された事がありました。

しかし貴殿の書かれた様に「あの激動の幕末にみんな命がけで闘っていたので、尊い命を落とした人達は当然顕彰すべきであると思います。」と言う言葉は、私とすれば正論だと思います。

そう言う意味で、当ブログでは幕末にこだわらず土佐に生きた人々を一人でも多く取り上げて、「土佐にゃこんな人が居った」と言う事を、一人でも多くの人に「知ってもらう」じゃなくて「知ってあげて欲しい」と言う思いで綴っております。

コメント、ありがとうございました。

2013/08/24 (Sat) 22:35 | KY さんへさん">REPLY |   

KY  

うーむ様へ

岡田以蔵が自白をしたきっかけは色々言われておりますね。拷問に屈した、毒殺計画に怒ったなどですが、私はむしろ、武市半平太が裏切ったと思ったからではないかと思います。以蔵が捕縛されたという知らせが土佐藩庁に届いた直後に武市半平太に対して、京都における本間精一郎殺しについての尋問があった時に、岡田以蔵と薩摩の田中新兵衛の名前を挙げていることが記録に残っております。しかも、以蔵は粗暴なり、とまで言っております。その時半平太は、以蔵が捕縛されたことは当然知らなかったのでしょう。しかし、それにしても、義兄弟の契りを交わした新兵衛(その時はすでに故人とはなっておりますが)、そして嘗ては勤王党内で任務遂行に励んでいた以蔵の名前を挙げたのはやはり以蔵にとっては許せなかったことだと思います。半平太も一年近く收牢されており、普通の精神状態ではなかったのでしょうが、上士に準じた白札格である彼は拷問も受けずに、他の收牢者に比べて格段に良い待遇であるはずなので、無宿者として捕縛された以蔵は、自業自得ではあるにしても、半平太はリーダーとしての度量と態度をとることができなかったし、その資質が無かったのでしょう。このようなリーダーを持った以蔵も不幸であったし、他の勤王党員も気の毒であったとしか言えません。ただ、あの激動の幕末にみんな命がけで闘っていたので、尊い命を落とした人達は当然顕彰すべきであると思います。

2013/08/24 (Sat) 17:12 | EDIT | REPLY |   
オンチャン(とさっぽ)">

オンチャン(とさっぽ)  

Re: すみません

オンチャン(とさっぽ)">

> 田中光顕によると以蔵は酒色に溺れ身を持ち崩し、また着牢後は牢番に自慢話をし、女性も耐えた拷問で泣き叫んでいたという記録が残っています。

田中光顕が、直接みた訳じゃないですよねー。
誰かに聞いたか、憶測ですよねー。
誰かの書いた描写が一人歩きしているんじゃないですか。
仰せのとおり、岡田以蔵は顕彰されるべき人物でもなく、オンチャンは、ただ時代に翻弄された一人として捉えているしだいです。
それ以上の事は、専門家に任せておけばいい訳でして・・・。

オンチャン自身は、色んな意味で田中光顕の文章が全て真実とは思っていません。
何事にも虚像と実像が付き物でして、正史とされる物も都合のいい様に改ざんされちょるのもありますしねー。
また、此のブログでも岡田以蔵を顕彰はしちょらんつもりです。
もし、顕彰しているように捉えられたとすれば、当方の文章表現が悪い訳でして、お許し願いたく思います。

反論しているんじゃないですよ。
面白い部分なので、何が真実なのか色々と調べてみては如何ですか。
また違った見方が、出来ると思いますけんどねー。

2011/05/15 (Sun) 01:09 | オンチャン(とさっぽ)さん">REPLY |   

あきら  

すみません

足跡機能を知らなかったもので。失礼しました。
岡田以蔵=天誅のイメージはひとえに創作によるもので、実際は希望者が集って集団で襲撃を掛けるというのが天誅の実態になっていました。
一緒に天誅に参加した記録の残っている島村衛吉などは
拷問に死ぬまで耐えた事を思うと、彼の死のきっかけになった以蔵が「武市半平太や仲間に尽くした」という現在のイメージといい墓前祭の事といい、先人に対してなんだか失礼なように思われるのですよ。
田中光顕によると以蔵は酒色に溺れ身を持ち崩し、また着牢後は牢番に自慢話をし、女性も耐えた拷問で泣き叫んでいたという記録が残っています。
記録に残る彼はあまり誉められた人ではなかったようですが、そんな人を創作のイメージのみで英雄扱いとは果たして正しい事なんでしょうか。

2011/05/14 (Sat) 19:14 | REPLY |   
オンチャン(とさっぽ)">

オンチャン(とさっぽ)  

Re: あきら さんへ

オンチャン(とさっぽ)">

> ・・・・・岡田以蔵は顕彰に値する人間ではないとして名前を外していたものと思われます。
> 彼のした事を思えば、大河ドラマの扱いと実在の人間を混同するのはどうかと思いますよ。

顕彰とは - 隠れた善行や功績などを広く知らせること。広く世間に知らせて表彰すること。

岡田以蔵に関しては、お墓のある地区の一部の人らーが岡田以蔵の顕彰と称して、昨年から墓前祭をしゆう。

確かに、此の場合の「顕彰」と言う言葉は、オンチャンも???じゃけんどねー。

けんど、高知県護国神社にも何処にも顕彰碑はないろー。

昭和58年に岡田以蔵を高知県護国神社に合祀された経緯が高知県護国神社の神職と巫女のブログ「土佐護国日記」に書かれちょりますき、そのまま引用転載しちょきます。

岡田以蔵 - 土佐護国日記~今、ツツジが見頃です~ - Yahoo!ブログ
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:Vs0b9thd0rQJ:blogs.yahoo.co.jp/kochi_gokoku/25472090.html+%E9%AB%98%E7%9F%A5%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E5%B2%A1%E7%94%B0%E4%BB%A5%E8%94%B5&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&client=firefox-a&source=www.google.co.jp

岡田以蔵が合祀された、昭和58年11月の 『 維新殉難志士 合祀者 御祭神名簿 』 にはこう記されています。

【武市瑞山に心服し、勤王活動に入る。独断による暗殺多く除かる。土佐藩元監察 井上佐市郎を斬る。藩に捕らえられる拷問の末自白の類同士に及ぶ。慶応元年5月11日 28歳 合祀を申請不許可の記録あり。墓所 薊野 真宗寺】

当時、処刑された以蔵はその罪のために藩から合祀が認められませんでした。

しかし、昭和50年を過ぎた頃、高知県退職公務員連盟の中に維新志士の顕彰会が発足され、その総意により、『 岡田以蔵が藩士であることにかわりはなく、その功績を認め、御霊 ( みたま ) を鎮めることが必要である。 』 とみなされ、またご遺族のご要望もあり、昭和58年に合祀されることとなったのです。

一様、合祀を決めたのは維新志士の顕彰会とあるけんど、岡田以蔵を顕彰しちゅう訳じゃないねー。

あくまでも、維新のために命を落とした土佐藩の志士達の一人として、彼の霊を弔うと言う意味だけですき。

それぞれの考え方がある訳ですき反論する気はまったくないけんど、意見として書く場合は貴殿の足跡ぐらい残すのがルールぜよ。

2011/05/13 (Fri) 20:10 | オンチャン(とさっぽ)さん">REPLY |   

あきら  

うーむ

岡田以蔵は「人斬り」と言う理由で外されてたのではなくて、
拷問で自白し仲間を売って勤王党の獄破綻のきっかけになった人物なので顕彰されていなかったのではないでしょうか?
ちなみによくいわれる岡田の「毒殺未遂を恨んで自白」は司馬遼太郎の創作です。
田中光顕はこの事を知っていたはずなので、岡田以蔵は顕彰に値する人間ではないとして名前を外していたものと思われます。
彼のした事を思えば、大河ドラマの扱いと実在の人間を混同するのはどうかと思いますよ。

2011/05/13 (Fri) 13:50 | REPLY |   

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